今週の範馬刃牙/第268話 | すっぴんマスター

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(※注:ゲーム攻略サイトではありません)書店員。読んだ小説などについて書いています。基本ネタバレしてますので注意。気になる点ありましたらコメントなどで指摘していただけるとうれしいです。

第268話/真・象形拳





なんか遺影みたいな刃牙の扉絵である。

親子喧嘩はテクストとなり、語られるものになることで、「読者」をつくりだした。観衆の到着はある意味では必然だった。

このことで、勇次郎はもちろん、刃牙のなかにおいても、ある特定の「読者」に対する自覚が出始める。勇次郎では、貪欲に、主体的にじぶんを求めるというしかたでコミットしてくる「語るもの」との接触がはじめての経験であったために、あのとまどいが生じた。これまで彼にとって「他者」とは、「じぶんより弱い」という方法で規定される相対的な産物、つねに「私」に含まれている他愛のない存在にすぎなかった。それが、まったく唐突に、ほんらいならありえない「強い弱い」より高い次元からのしかたで、「私」を規定してくるものが現れたのである。じぶんかってに批評をはじめる無責任な「読者」というありように、世界と等号で結ばれる自我の持ち主である勇次郎は、うまくなじめなかったのだ。

たほうでバキは、この生成されていくテクストのなかに、観戦しているらしいピクルにむけての恐竜拳というメッセージを組み込む。『ラスト・アクション・ヒーロー』の結末で、シュワルツェネッガーが主人公の少年にむけてしたウインクとおなじだ。

こうして、テクストのなかの言語を用いた正統的なものでありながら、ある種の逸脱を果たした不思議な志向性ができあがった。

ここに、勇次郎にとっての息子はいない。「じぶんに向けて恐竜拳をつかってくる息子」は消失しているのである。

ただ「恐竜拳」というふるまいだけが共有されるかたちで、ふたりは激突したのである。



物語の構造としてはそうでも、では現実にはどんなダメージを与えうるのか。

トリケラトプスの角をつかんで踏ん張る勇次郎なのだが、これをとめることはできない。スピードはすでに死んでいるとおもうが、勢いはいっこうに衰えない。ばりばりと地面を削りながらバキが勇次郎を後方に運んでいくのである。

やがて車に激突し、ひっくりかえしてぶっ壊したところでやっと突進はとまる。というか、バキが突進をやめる。勇次郎は満足そうだし、光成などは恍惚としている。



勇次郎は、バキの象形拳が生み出すパワーを認める。明らかに70キロの少年のものではない。原始の膂力であると。上空から見守るピクルは、立ち上がってなんかうなっている。うずいていきているのかもしれない。





「象形拳なるものの理想・・・



或いは



目指すべき方向とでもいうべきか



キサマに伝授(おし)えよう」






熊のかまえだとか虎の勢いだとか蟷螂の闘法だとか、象形拳はさまざまな生物のありようを真似て、創意工夫ののち、ある達成をなす。しかし、そのどれもが、所詮は模倣(ものまね)だという。勇次郎らしい言だが、前後の文脈からすると、これまでの彼の壮語とはちょっと調子を異にするものかもしれない。

仮に、ゴジラの型を完成させて、火を吹くことができたとしても、模倣は模倣だと。つまり勇次郎は、イメージがもたらす達成、あるいは破壊力のことを問題にしているのではなく、そのありかたのことをいっているのである。

そしていまから、象形拳の理想形を見せると勇次郎はいう。なんか不思議なかたちに手をあげて甲を打ち鳴らし、勇次郎がなんらかのかまえをみせる。そこにいる全員が目にしたというから、イメージもしっかりできている。なんか衝撃波みたいのが周囲に広がり、汗を流しながらバキも象形拳の完成形に驚いているのだった。





つづく。





父がかまえをとったときのバキのリアクションがよくわからない。

「モノマネじゃん!」といっているのだけど、それだってモノマネじゃないか、という意味ととってよいのだろうか。

さて、勇次郎は、いったいなにをイメージしたのか。

ふつうに考えて勇次郎はじぶんじしんをイメージするんじゃないかとおもう。

父に近づこうとするバキが模倣に走り、優れた象形拳のつかいてとなるのは理論的に正しい。

父・勇次郎とは、世界のことである。

彼は、生きとし生けるものすべての唯一無二性を否定するものである。

「おまえにできておれにできないことはない」と告げ、その存在が交換可能であるという絶望的事実をつきつける存在だ。

だから、父に勝つということは、世界中のすべてのにんげんに勝つということにほかならなかった。

そのことを骨の髄まで知り尽くしているバキは、自然と、「世界中のすべてのにんげんを師匠にする」という思考作法を採用していた。これはゴキブリの一件にすべてあらわれているとおもう。

だから、象形拳は、バキにとっては理論的に正しい、最高の手段なのであり、また逆にいえば、勇次郎にもっとも近づける方法が、これしかないのである。

だが勇次郎はこれを否定する。象形拳で得られる破壊力など大したものではない、ということをいうわけではない。げんにゴジラの象形拳が可能で、突進と同じレベルであの光線が具現できたら、とてつもない武器となることだろう。

だが勇次郎がいうのはそういうことではない。そもそも「模倣」から出発することに、異論を示しているのである。

これも、勇次郎からしてみれば正しい言い分なのである。

象形拳は、他者の交換不可能性をふまえて、じぶんにはないなにかをつかってじぶんにはなせないなにごとかをなすものであろうとおもわれる。

しかし、彼にとっては、あこがれの対象であった恐竜ですらが、げんにじしんを凌駕したことがないという事実から、自我に含まれるものとなる。

彼が最強であるという命題は、帰納的に、「どうやらそういうことでまちがいないらしい」というしかたで証明されたものであり、ほんらいはいつでもくつがえりうるものだが、その蓋然性があまりに堅固なものであるために、ほとんど真理みたいになっている。それは勇次郎じしんにとってもそうだった。

だから、勇次郎にとってのバキのような象形拳は、じしんのあるぶぶん、あるいは側面の再現という程度にとどまる。

例にでたゴジラですらも、客観的に見たらいくら勇次郎でも勝てるとはおもえないが、彼の自我は経験的に、帰納的に、その内部に含んでしまう。ふつうは多面的に、質的に千変万化する自我が、彼ではこのように量的なものなのである。

そんな彼がなんらかのイメージを具体化するようなことがあるとすれば、それはセルフポートレイト以外ないのではないかとおもう。

もちろん、勇次郎じしんはそこにいるのだから、彼がもうひとり重なるだけでは意味がない。

重要なのは〝誰が〟イメージしているのか、ということなのである。

わたしたちのイメージする勇次郎は、わたしたちを凌駕し、世界を包み込む強大な存在である。

では勇次郎のイメージする彼自身とはどのようなものなのであろうか。

彼が最強であることをもっとも強く信じているのは、彼自身だろう。

彼の強さを支える自我が想定する勇次郎、これが表現され、また具体化されれば、理論的にそのちからは無限大である。




と書いてはみたが、もちろんそうでない可能性もある。

だが、特定のなんらかの生物や物体をイメージするということはないようにおもう。

だとしたら、ほかになにが考えられるだろう。

虚無をイメージして透明になったりとか、ゴムをイメージしてゴム人間になったりとか、父をイメージしてベイダー卿になったりとか、神をイメージして作者になったりとか・・・。

まあ来週を待ちましょう。





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