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DVDとしては3、4枚目、書籍「こびと観察入門」をもとにした映像作品が新しく発売されました。観察入門の第二弾も、そのうちに出るようです。
大人の目で冷静に見てみると、ひたすらに作者のなばたとしたかの想像力に感服するばかりで、こういう観点はあまり好みではなく、作品そのものに対する評価とはまたべつになるのだけど、ちょっと大仰ないいかたになるが、子供への教育的価値ということを考えたとき、これほど、意識的にか無意識的にか問わず効果的なものは、なかなかないんではないかとおもう。
こびとたちはどれもこれも、妙にリアルな顔つきをした生き物たちで、ほとんどの大人の最初の感想は、なにかえたいの知れないものに触れたときの不気味さ、そしてそれを「かわいい」ということへの生理的拒否、というところではないかとおもう。そのへんは、まあ理解できなくもない。というのは、このこびとたちは、ただキャラクターとして、独立物として存在していくものではなく、わたしたちの見ている世界の背後に息づくものものだからだ。
たとえば、このDVDに登場する「イエコビト」などはもっとも好個の適例で、「こびと大百科」にくわしく書かれているが、知らないうちにトイレットペーパーが三角折りになっていたり、髪の毛を洗っているときに背後に視線を感じたり、猫がなにもない空間を凝視していたり、そういうときは、イエコビトが隠れている可能性が高いというのだ。
そのほかにも、たとえば、山で「ヤッホー」と叫んだ声が返ってくるのは、山が音をはね返す以外に、人の声、特に「ヤッホー」という発声を嫌う「ヤマビコビト」が威嚇のポーズをとり、広げたトウチン(あたまについてるなんか「もつところ」みたいなやつ)で音を反射させているという。
内田樹は『最終講義』において、子供の教育について次のように語っている。
「子どもたちにはこれから学ぶことの価値も意味も実はわかっていないという根源的な事実を教えるのが、教育の存在理由なわけですから、子どもに『みんなわかっているんだ』という態度を絶対に許してはいけない」220頁
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うまく引用できそうなところがなかったのだけど、要するに、学びの動機というものは、未知、あるいはその存在を感じとったときに起動するものなのであり、少なくとも、すみからすみまで見知った「既知」のうちでは、子どもたちの、というか私たちの「学びたい」という衝動が生まれることはない。「けっきょく、世界とはこういうものである」という断言は、くちにするほうは、ある種のゆるがぬ基準で万物を査定するのだから、まるでじぶんが絶対の審判をくだせる神になったような気分で気持ちがいいかもしれないが、少なくとも、子どもの前ではぜったいにくちにしてはいけない。世界を手探りですすむ子どもたちにとっては「じぶんにはまだ見ていない世界がたくさんあるのだ」という実感こそが、無自覚の成長のよすがなのである。
まあ、こびとに夢中になっている息子にむかって、「現実を教える」などという傲慢さのもと、「そんなのいないよ、トレットペーパーはお父さんの会社の友達がくるときだけお母さんが折ってるんだよ」とささやく父親はいないとはおもうが、子どもたちのうちでは、このこびとの世界に入っていくときに、世界は無限の可能性をもっているのであり、それは、「じぶんの見ている世界は他の人の見ている世界とはちょっとちがうのかもしれない」という、自明のことなのにまったく前景化されない、学びの初期衝動に直接つながっていくものだとおもう。
しかしこれは、大人にとっても同じことではないかとおもう。わたしたちのある面が、こびとの風貌に表出するある種のリアリティを厭うのは、「未知」を恐れているからなのかもしれず、もう一歩さきにすすみ、なにか懐かしさのような愛着をこびとたちに抱くのは、「既知」で満ちてしまった世界に、わずかな未知の光がさしこむからなのかもしれない。
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