■『映画の構造分析』内田樹 文春文庫
- 映画の構造分析―ハリウッド映画で学べる現代思想 (文春文庫)/内田 樹
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「この本の目的は、(中略)「みんなが見ている映画を分析することを通じて、ラカンやフーコーやバルトの難解なる術語を分かりやすく説明すること」にあります。『エイリアン』と「フェミニズム」、『大脱走』と「父殺し」、「ヒッチコック」と「ラカン」etc.ハリウッド娯楽大作に隠されたメッセージを読み解く、著者の初期代表作」裏表紙より
帯によると、映画版の「寝ながら学べる構造主義」ということです。
文庫などの著者紹介などを見て、内田樹の肩書きのひとつに「映画評論」的なことが記されているのが、これまでよくわからなかった。いや、ブログなどを通しても映画の造詣が深いひとだということはわかるのだけど、たとえば「専門はフランス現代思想」などということばの横に「映画」があがっているのが、いまいちわからなかった。でも、過去にこういう著書があったのですね。なんでも雑誌で映画評を書いていたこともあるらしい。本書に関しては今回がはじめての文庫化。
文中の説明によれば、すごくかんたんにいってしまえば、現代思想を駆使した映画批評ではなく、目指されているところは、おおくのひとがよく知っている名作映画をつかって難解な現代思想を解いていこうとするものです。このことに関しては、解説の鈴木晶がすごくわかりやすい表現をしてくれている。
「当たり前ですが、映画は理論の説明のために作られたわけではない。ある理論がある映画にぴったりとあてはまる、というのとも違います。あえて言うなら、ある思想なり理論が、映画と結びつくのです。時には電気のショートのように火花を放って結びつく。ジジェクや内田さんはどこがどう結びつくのかを解説してくれるわけです」249頁
というわけで、映画の本である。僕もけっこう映画が好きなほうだとはおもうが、しょせんはときどき思い出して観ているというレベルを出ない。本書に登場する映画では、「エイリアン」と「ゴーストバスターズ」を除くすべてのものに関して見たことがない。しかし、「大脱走」だとか「裏窓」だとか、聞いたことのあるタイトルばかりであるし、それはたぶん一般の文学ファンにとっての田山花袋や埴谷雄高みたいなもの、まず「よく知られた」映画ばかりといってまちがいない。
そうして、まあこのひとはおそろしい切れ者ですから、これまで僕が考えもしなかったような新しい切り口で「ゴーストバスターズ」や「エイリアン」が解きほぐされていき(しかしそのじてんで「言われてみればオレもそんなふうに感じていたかも」という具合になにか共振するようなところが出てくるのも、このひとの明晰な語り口によってもたらされるもの)、表層的に眺めればそれはほとんど一種の解答であり、「保留」を許さず、作品の生々しさを損なう身も蓋もないファイナルアンサーのようにおもわれるかもしれないが、そういうことはない。それよりも、著者じしんがわれわれ読者に期待しているように、やってくるのは「いますぐツタヤにダッシュして『大脱走』なる映画を観てみたい。マイケル・ダグラス作品を連続で浴びてみたい」という衝動なのである。このことについては、内田樹の継続読者ならいまさらということかもしれないが、「盗まれた手紙」におけるデュパンの達観したふるまいを通して、以下のようにはっきりと書かれている。
「分析者の仕事は「キープすること」ではなく「パスすること」、「ユーバートラーゲンすること」なのです。
退蔵してはならない、交換せよ。
それが人間に告げられた人類学的な命令です」137頁
これは、内田樹からの解釈のパスなのだ。
たんじゅんに、おなじ映画を、その理論を敷衍するかたちで分析していってもべつにかまわないけど、これはもう少し分派的に発展していくものと考えてもいいだろうとおもう。
とするなら、批評というのは、動的なものである。
映画(作品)があって、批評がある。そういうふうにデジタルな図式で考えるから、おそらくことはややこしくなる。
それらは、もしかすると総体で成長していく生き物のように、正しくテキストとして織り上げられていくものなのではないだろうか。
高橋源一郎の「ミヤザワケンジ・グレーテストヒッツ」 を通して、僕は小説というものも、そうしたある種の「パス」なんじゃないかというふうに書いた。
それは、たぶん考えられているほどリニアなものではない。
くもの巣が広がっていくように、無意識層で、つまり構造のレベルで周囲をからめとっていき、力点を動かせていく。
批評が作品から抽出した理論の展開であり、理論のために作られたわけではない、赤ん坊のように無垢な、ただある作品がそれと相容れないのは、しかたのないことかもしれない。
もしこれらが一体となって展開していくようなことがあるとすれば、それは、批評のほうでもまた、作品がもともともっている生々しさ、即興性、ダイナミズムをひきうけるかたちですすんでいくしかないのではないか。
だから、批評というものは、解答になってはならないのである。
少なくとも、「これが解答である」と宣言するような批評は、いかにも傲慢である。
極端なことをいえば、ブランショが「体験」についてバタイユに指摘したように、批評は権威を帯び、箴言的に硬化し、くりかえし語られるようになったとき、役目を終えているのではないだろうか。
といっても、それは「優れた批評」の価値が落ち、相対的に劣っていくということではない。
いまだって哲学科の学生はデカルトやキルケゴールを読むだろうし、好きになるだろう。
しかしそれもまたひとつのパスなのであり、短絡的なこころの安寧を得るために真理ととらえてしまう落とし穴から絶えず距離をとろうとする、重要なのはそうした積極性のふるまいだろう。
あるばあいには、書き手の意識とはまたべつのところから指示されるかたちで、批評は解答に「なって」しまうのかもしれない。
つまり、それを読んだ我々が、祭り上げるかたちで解答に「する」のである。
書き手に「これはパスである」という意識がある以上に、おそらくは、読者側における「パスをうけとめよう」とするこころがまえも、必要なのだ。
僕はずっとむかし、書き手のこうした意識を、「理論はつねに反証可能でなければならない」という、ポパーだかチョムスキーだかのことばを通して、「科学的姿勢」というふうに概括していた。
しかし、それはなにも書き手側に限ったことではないのだ。
というわけで、僕にとって本書は批評のひとつの理想形のようにおもえます。
- 寝ながら学べる構造主義 (文春新書)/内田 樹
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