『黄金の壺』ホフマン | すっぴんマスター

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■『黄金の壺―近代のおとぎ話―』E.T.A.ホフマン著/神品芳夫訳 岩波文庫



原題:DER GOLDNE TOPF






「ドイツ・ロマン派の異才ホフマン(1776‐1822)自らが会心の作と称した一篇。緑がかった黄金色の小蛇ゼルペンティーナと、純情な大学生アンゼルムスとの不思議な恋の経緯を描きつつ、読者を夢幻と現実の織りなす妖艶な詩の世界へと誘いこんでゆく。初期の作品ではあるが、芸術的完成度も高く、作家の思想と表現力のすべてがここに注ぎこまれている」表紙より




ホフマンはフロイトの「不気味なもの」で知った作家であって、だからなにはともあれ「砂男」を読みたかったのだけど、どうも入手は難しそうだった。

しかしたんに作品ということなら、この「黄金の壺」も光文社の新訳から出ているし、いまのところたやすいようだったので、とりあえず一篇が収録された岩波文庫を購入することにしたのだった。海外の作品には、さまざまな翻訳を読むことができるという特権的な楽しみがある。ばあいによっては原文にあたっていくなんてこともできるし、だから今回は、作家を知るという意味で、これがちょうどいいだろうという判断です。



というわけで、フロイトが分析したものとはべつの作品になるわけだけど、これをぬきにしてもたいへんな小説で、傑作としかいいようがないとおもう。200ページにも満たない短い作品だけど、ぜんたいは緊密に構成され、完成度は非常に高い。


あらすじとしては、なにをやってもうまくいかない、運に見放されたような不幸な大学生アンゼルムスが、街の昇天祭の際、ふらふらと当たったにわとこの木の下で、青い瞳をもった金緑色の蛇ゼルペンティーナと恋におちるというもの。

その他の登場人物としては、このゼルペンティーナの父親である、もともとは火の精であるというリントホルスト、これに対抗する竜の羽根から生まれた魔女のラウエリン、アンゼルムスの「狂気」を心配しながらいろいろと世話をやく教頭のパウルマン、アンゼルムスに現実では王室の文書管理役という職についているリントホルストのもとで筆者の仕事をするよう斡旋したへールブラント、そして、「将来は宮中顧問官になるということもあるかもしれない」という父親のひとことでアンゼルムスを恋するようになる、パウルマンの娘ヴェロニカ。基本的にはアンゼルムスとゼルペンティーナを含め、以上の7名ではなしはすすんでいく。かんたんにいえば、後半の三人、パウルマン、へールブラント、ヴェロニカは、アンゼルムスの目を通して語られる世界の現実的側面を表象する人物たちであり、解説にもあるとおり、一様に出世主義的である。ヴェロニカはアンゼルムスを恋しているが、へールブラントが宮中顧問官になったのち彼女にした求婚をふたつ返事で受けていることから、彼女が求めていたのがアンゼルムスではなくその職、ひいては「宮中顧問官夫人」という社会的価値だったということがわかる。

そして、ふがいないアンゼルムスに対しあれこれ手をつくしながらやや狭量なところがあるパウルマンなども含めたこちら側は、人間がことばを用いて定めた現実原則の世界である。ソシュールのイメージを借りれば(それとも丸山圭三郎だったかな)、茫漠とした言葉以前の砂浜のうえに網をのせたさきの、さまざまな面積・形状の集合が、この世界であって、ことばをつかってものを考える我々の見るものは、つねにこの言語の構造を通したものとして内面に立ち現れている。この意味の面積みたいなものが、「価値」である。



たほうで、ゼルペンティーナと恋に落ちたアンゼルムスが体験する世界は、なにか万物がアナログに連結したような、フロイト的にいえば「思考の万能」がもたらす認識、アニミズム的な世界である。いまのイメージでいうと、網目で区切られる以前の砂浜そのものである。もちろん、そこにはことばがある。鳥や花や風は、アンゼルムスにことばではなしかける。しかしそれは便宜的なものであり、どこまでも体感的なものであるとおもわれる。

こんなものを相手にアンゼルムスはぶつぶつしゃべっているので、まわりからはおかしいひととおもわれる。「ひとりごとは悪魔がしゃべらせることばである」(20頁)という学長のことばが引かれているが、つまりここでいうひとりごとというのは、にんげんが言葉を獲得して失った茫漠とした「アトランティス」にたいしたとき、ほかに方法をもたない人間がなんとかくちにすることのできたことばであって、「悪魔」とまでいうのは、これがすなわち言葉の、理性の世界への反対にほかならないからである。



ゼルペンティーナは、はじめて登場したとき、蛇の姿をしている。だが、ふとしたとき、彼女は人間の姿になる。あるいは、「あきらかに愛らしく美しい女の子のすがたであった」(112頁)という具合に、過去形でアンゼルムスがそのことに気づく。しかし、後半になるにつれ、「このゼルペンティーナはどちらの姿をしているのか」ということが、けっこうあいまいになる。それというのは、「姿」において、人間も蛇もある種のことばであり、価値であるからである。アンゼルムスは、「アトランティス」に近づくにつれ、こうした価値の取り払われた世界に漸近していくことになり、やがてはゼルペンティーナの本質、彼女そのものに近づいていくのである。どう考えても蛇なのに、よく見ると人間だ、というようなアンゼルムスの気づきは、彼女に関することがらに限らず、頻繁に見られる。これは、現実の世界と、ことばがうしなわれ、自然との調和が果たされた理想郷とのあいだを不安定に行き来している結果である。


理想郷を宿したゼルペンティーナが地上では明瞭な蛇の姿をしているというのもおもしろい。安部公房によるところでは、蛇の不気味さというものは、日常性の欠落ということからきている。手足がないから擬人化が難しく、ふだんどんなふうに生きているのかが直感的には理解できないため、生活感が欠け、「いる」ときと「いない」ときがデジタルに差異化されてしまうのである。

このことを考えると、ゼルペンティーナが蛇の姿をしていることは、アンゼルムスにおいてまだ現実と理想郷がくっきりと区別されたものとして認識されているということを示すかもしれない。恋をすることで、世界は不思議に光り輝き、調和が感じられるようになるということは、誰しもあるだろう。ホフマンは、もしかするとこの「恋」を方法的に用いることで、世界のアナログな溶け合いにアンゼルムスが到達する手助けをしているのである。しかし「蛇」のじてんでは、それはまだまだ「SOMEWHERE」でしかない。ゼルペンティーナの姿の、縁取りの鮮やかさは、そのままアンゼルムスとアトランティスとの距離をあらわすのではないだろうか。


このようにして、アンゼルムスの理想郷への到達は、作品のもっとも大きな目的となってはいる。だが、解説にもあるとおり、現実の、世俗的なひとびとが否定的にあつかわれるということはない。宮中顧問官(仮)のアンゼルムスをあれほど求めながら、へールブラントがその職についたとたんあっさりと求婚をうけてしまうヴェロニカも、寓話的に皮肉をこめながら、どこか寛容に描かれている。アンゼルムスが作者の壮大な目的のためにつきすすむいっぽうで、ヴェロニカやへールブラントにおいても一種のオチがついているのである。さらにいえば、どこまでほんとうのことをいっているのかあやしいへールブラントはともかく、ヴェロニカも、アンゼルムスが表す「夢物語」に一定の理解を示している。というか、ヴェロニカは魔女のちからを借りてアンゼルムスを手に入れようともするのだから当然なのだけど、ともかく、ぜんたいとして「そういうこともありうるかも」という具合に、現実のほうの幕はおりる。これは、なんだか不思議な気がする。ホフマンがもし、ことばに支配された出世主義の現世を厭い、独自の理想を描いたのだとすれば、こちらが否定的に書かれたとしてもおかしなことはない。それがこのように、ほとんど両立するような感触で描出されることは、リントホルストが「火」の精であることも合わせ、僕にここでニーチェの考える「悲劇」を思い起こさせる。

僕はいまのところニーチェじしんの書いたものを読んだことがないので、竹田青嗣の「ニーチェ入門」を参考とするのだが、ニーチェはアイスキュロスの悲劇『プロメテウス』を論じて、「生の是認」に到達する。




「プロメテウスは、神々の世界への冒涜としてまた略奪として火を支配しようとする。そのことによって人類は『洪水のような苦悩と悲哀を』被ることになるのだが、しかしアイスキュロスは、プロメテウスのこの行為を『能動的な罪』と見なす。つまりアイスキュロスはこの行為を、人間の欲望の本性に由来する必然的な災いとしてまた必然的罪として是認し、またそこから生じた人間の大きな苦しみをも是認するのである」(ニーチェ入門‐40頁)




火が獲得されることで生活は豊かになり、これまでできなかったあらゆることが可能になったが、同時にそれは戦争の道具ともなりうる。ここには大きな生の矛盾がある。人間は、こうした矛盾をたえまなく生成しつつ、なお生きようと欲する。この欲望以外に生の理由はありえないと。


ホフマンのほうがずっと古いので、作家がこの哲学者の著書を読むということはなかったが、しかしこうした矛盾するできごとが並行してありうるというのは重要なのではないかとおもわれる。予感というか理想としては、たぶんホフマンのなかにもあったにちがいない。だがそのいっぽうで、世俗的な現実世界を否定的にあつかうということもできない。地上に堕ちた精霊であるリントホルストが、自然現象の中でも人間の矛盾をもっとも表現する「火」を司るというのは、偶然としてもおもしろい。リントホルストもまた、生身でいながら両方の世界にあいまいに属す不思議な存在である。物語のおしまい、はじめて登場し、リントホルストと会話をして、アンゼルムスの行く先を体験する「作者」は、すばらしい自然の調和を目にしたあと、現実の生活の貧しさを思い出し、がっかりしてしまう。だが、リントホルストはいうのである。




「あなたもたったいまアトランティスに行っておられたではないですか。それにあなたもあそこに詩人の魂の所有地としてけっこうな農場をちゃんとおもちではないですか。――そもそもアンゼルムスの味わっている至福の生活は、つまるところ詩のなかにある生命と通ずるものなのではないでしょうか。詩のなかでは、この世のあらゆる存在がきよらかな調和をとげ、それが自然の最も奥深い神秘となって現れ出ているのですからね」175頁




理想を前にして現実の貧しさに肩を落とす作者の姿は、そのまま、矛盾をまっすぐに描かなくてはならない、じしんに課した作家としての姿勢に返っていくものかもしれない。しかし、救いはある。それが、こうして、ここに一冊の本になっている、物語なのかもしれない。