■『モーラとわたし』おーなり由子 新潮文庫
- モーラとわたし (新潮文庫)/おーなり 由子
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「モーラは、わたしのともだち。おとうさんやおかあさんには、みえない。かなしいときには、モーラがいつもきてくれた。眠れないときには、夜をこえ、空をこえ、あかるいみどりの野原へつれてってくれた。けれどもある日、モーラはいなくなっていた―。きっとあなたにもいたはず、忘れられないひみつのともだちが。心をじんとあたためて、なつかしく、やさしい気持ちにさせてくれる絵本」Amazon商品紹介より
おーなり由子の名前そのものは、子どものころ愛読していたさくらももこ『ちびまる子ちゃん』の巻中エッセイで、よく目にしていた。
気になる作家ではあったが、なにしろいちおうのくくりは少女漫画であるし、なかなか、手はのびなかった。
それが、最近、教育テレビで名前を目にするようになった。
けっきょくなんだかわからない「リンゴントウ」とか、猫との切ない、交換不可能なかかわりを描いたクロとか。どっちもうただけど。
調べてみると、漫画家としてはそれほど作品を発表せず、現在は基本的に絵本作家として活動しているらしいということだった。
そして、とりあえずこれを読んでみた。
ぜんたいの雰囲気としては、「トイレの神様」に似ているところもあるかもしれない。
モーラは、リンゴントウとおなじように、なんだかよくわからない。わからないが、幼い語り手の、存在のもっとも深いところを保証してくれる、生のあたたかなよすがである。その感触が、トイレの神様のおばあちゃんと似ている。
僕はトイレの神様をよく知らないが、聞くところでは、うたいてはいちどおばあちゃんと離れてしまう。そのことを、人肌の温みが感じられるやわらかい記憶とともに悔やんでいくが、そう見ると、最後までモーラが消えてしまうことのない本作はべつものであるかもしれない。
だけれど、「トイレ」のうたいての悔やしみと、こちらの「わたし」がモーラを大切にするこころの動きは、同質のものである。
「わたし」もまた、他者には見えない夢の住人、「モーラ」なしの日常というものを、徐々に形成していく。
独自の「日常」が形成されていくということは、人物のアナログな全体性が確立していくということにほかならない。(参考‐イカ娘感想 )
そうして、たぶん、現実の補集合としての夢世界をまたにかけて、総体を生き抜いていくという子どもなりの方法は、なくなっていく。
しかし、現実の対照的な世界としてのモーラの野原が、これを成り立たせていたというあたたかい記憶は、「トイレ」のうたいての記憶同様、はっきりと残っている。
それは感謝の気持ちであり、同時に、ひとところにとどまっていることを許さない、「日常」がもたらす巨大な行き来に疲れた人間を懐古的にさせる。
いつまでもおばあちゃんやモーラにたよって世界を二分化していくわけにはいかない。
それどころか、そうした世界のとらえかたを「恥」と考えてしまう瞬間も・・・たとえば思春期などに、出てくる。
これをのりこえたさきに、もっともかえがたい、じぶんだけが知っている世界の相として、これらは記憶のなかにとどまってゆく。
なにもかも忘れて、無条件にいつでも帰っていけた安らぎの場所。
そこに永遠にとどまるわけにはいかないことを我々は知っている。
だが同時に、そのかえがたさ、交換の不可能性も、よく記憶に刻まれているのである。
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