■『文学と悪』ジョルジュ・バタイユ著/山本功訳 ちくま学芸文庫
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「わたしたちは世界史がつい先程まで「善」の通俗化としての残忍な悪と「悪」の通俗化としての残忍な善にとりかこまれていたのだということを忘れるべきではない(解説より)。―文学にとって至高のものとは、悪の極限を掘りあてようとすることではないのか…。エミリ・ブロンテ、ボードレール、ミシュレ、ウィリアム・ブレイク、サド、プルースト、カフカ、ジュネという8人の作家を論じる。 」
「眼球譚」のバタイユによる評論集です。
バタイユを読み始めたきっかけというものはないのだが、「眼球譚」をたまたま手にとって以来、そして酒井健の「バタイユ入門」を読んで以来、どうしても気になるというか、以前のフロイトのように、いまのじぶんにとって切実に必要ななにかがあるというような直観があって、こうして『文学と悪』を手にしてみたわけですが、その意味が具体化されることはないにしても、やはりこのひとの書くもの(あるいは考えるもの)には、まだ僕には言語化のできないなにかがあるということを、強くつよく感じた。じぶんでも消化しきれていないので深入りは避けますが、ジュネ論のところで出てきた「弱い意味での霊的交通」と「強い意味での霊的交通」は、そのまま、僕がブログを開設して以来、口を極めて論じてきた「共感と共有」にかなり近いものがあるのではないかと、僭越ながら、しかし軽い感動も含めて、おもった。
バタイユは、「眼球譚」の跋文でも見られた姿勢だが、作品を作家の無意識の表象というふうに見なし、深い層でつながったものであると考えるぶぶんがある。仮にテクストに暗合のようなものが含まれていたとしても、それを作家の無意識界の言語化というふうに読み取る面が、ある気がした。
そして、評論は、作品に隠れた暗合のような「作家」を汲み出し、ことばにする。
だが、仮に作品に「作家」が隠れているものとして、作品の動性のなかに生きていたそれは、表面に出され、姿を明瞭なものとしたときに、窒息してしまう。これは、バタイユに限らず、評論というもののジレンマだろうとおもう。読み取り先がどのようなものであれ、とりだした瞬間に作品が遺伝子のなかに孕んでいた生々しい動性は消え、硬化してしまう。
じつはこのジレンマは、バタイユじしんの哲学のなかにもあった。それはモーリス・ブランショに指摘されたところの、「体験それ自体が権威」であるということだ。制度的な善ありきの、対立し、そちらに規定される「悪」は、どこまでも瞬間的なものであり、持続するということができない。これが人間存在の根源であるとしても、持続してあり続けたときから、その体験もまた権威を帯び始める。
そうしたジレンマは、評論にも対応するものがあるかとおもうが、バタイユの見るところでは、作品のなかに隠れている「作家」もまた、このテーマに取り組んでいたりもする。たとえばカフカは、絶望の領域に権威を与えようとするのではなく、そのままとどまろうとした。善の反対の場所に浮かぶことで「排除された者として」(243頁)生きようとしたのだ。カフカにとってのこの生き方にありうる「成功」とは、(バタイユによれば)次のようなものだった。
「その条件とは、すなわち、自分がいまそれであるところの無責任な子供のままでいつづけることというのである」245頁
ジュネ論では、「霊的交通」ということばを用いて具体的な文学論に踏み入っていき、それはたぶん“沈黙せざるを得ない”ジレンマを抱えた「批評論」に展開していく可能性もあったろう。
このようにして、バタイユが読み取るこれらの作家たち、作品たちは、少なくとも本書では、バタイユじしんの思想の置き場所として生き生きとしている。だから通して読むことで、作品を媒介にバタイユの思想をくわしく読んでいくということになるとおもう。
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