『私の「漱石」と「龍之介」』内田百閒 | すっぴんマスター

すっぴんマスター

(※注:ゲーム攻略サイトではありません)書店員。読んだ小説などについて書いています。基本ネタバレしてますので注意。気になる点ありましたらコメントなどで指摘していただけるとうれしいです。

■『私の「漱石」と「龍之介」』内田百けん  ちくま文庫




私の「漱石」と「龍之介」 (ちくま文庫)/内田 百けん
¥714
Amazon.co.jp



「門弟として師の夏目漱石を敬愛してやまない著者が、時にのぞみ、おりにふれてつづった師の行動と面影とエピソードの数々。さらには、同門であり、よき理解者であった芥川龍之介との交遊を描いた百鬼園文章のすべてを収める」裏表紙より




内田百けんはたいへんに有名な文筆家ですが、じつはほとんど読んだことがなかった。講談社文芸文庫の「短篇小説再発見」でちらっと見たことがあるくらい。もしかしたら漱石や芥川の文章で名前を見たことくらいはあったかもしれないけど、いずれにしても文章に触れたことはほぼなかったといっていい。せいぜい「阿房列車のひとでしょ」というくらい。



戦後短篇小説再発見10 表現の冒険 (講談社文芸文庫)/著者不明
¥998
Amazon.co.jp



そういうわけで僕にはまったく未知のひとですけれど、これまでの経験上といっていいのか、「内田百けん」について語るひとが、その文章でその名前に含ませる感情というものは、たいへんに熱狂的なものが多かったようにおもう。すごい深いファンがたくさんいるのだなーという印象でした。



本書の内容は、うえに裏表紙から引いたとおり、このひとの師匠であるところの夏目漱石、そして、おなじく漱石の弟子であり、親しくもあった芥川龍之介について内田百けんが書いたものを、ほとんどワード検索的にあつめたようなもの。それであるのに書かれてあることが一貫しているのは、筆者の彼らに対する感情が一貫したものだったということでしょう。


総合的な、表紙に記されたタイトルは、誰がつけたものか知らないが、いずれにしてもこれが示すのは、内田百の見た「漱石」や「龍之介」がここには描かれているということです。「漱石」や「龍之介」という響きには、それを知る日本人に普遍的に合意形成された観念的な“意味”のようなものが、深くある。それもまたたしかな像(イメージ)ではあるにちがいない。しかしまあ、それはおいておいて、“私”の見ていた「漱石」や「龍之介」はこんなふうでしたと語っているのが、本書です。文章は質朴で自然体なのだが、語彙は明治から大正にかかる古い作家らしく非常に豊かであり、それの同居というのが、まさしく教養の高さ、また思慮深さを示すようでもある。品のある知性というものは、このようにして閑静なしかたでにあらわれてくるものなのだろう。


前半の、というか四分の三くらいは漱石のはなしであって、あこがれに満ちた語りは、ほほえましいところすらある。いまもむかしも、漱石は神様みたいなもの。それであるのに、身近に接する筆者の目撃する「漱石」は妙になまなましくて、おかしい。むかしトリビアの泉かなんかのテレビ番組でみかけた漱石の原稿用紙への鼻毛の植毛なんかも、ここに書かれている。



ほかに福沢諭吉なんかがそうですが、こうした文章に触れるときの僕のなによりの楽しみは、紙面から伝わる時代の匂いのようなものを感じることです。つぎは小説を読んでみようかなあ。



阿房列車―内田百けん集成〈1〉 ちくま文庫/内田 百けん
¥1,155
Amazon.co.jp