■『初稿・眼球譚』オーシュ卿(ジョルジュ・バタイユ)著/生田耕作訳 河出文庫
- 眼球譚(初稿) (河出文庫)/ジョルジュ バタイユ
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「一九二八年にオーシュ卿という匿名で地下出版されたバタイユ最初の小説。本書は、著者が後に新版として改稿したものと比べて全編にわたって夥しい異同がある。
サド以来の傑作と言われるエロティシズム文学として、「球体幻想」を主軸に描き上げた衝撃作であり、二十世紀の文学史上、最も重要な異端文学のひとつとして評価され続けている」裏表紙より
バタイユというと非常に高名な哲学者ですが、僕はこの作品がはじめての接触でした。
アメーバモバイルなどではぜったい転載できないようなことばが続くこの小説は、最初「ロード・オーシュ」という偽名で地下出版された。地下出版というのが、具体的にどういうことか、知りませんが、後序によれば、バタイユのある友人が腹を立てたとき、「雪隠へ失せな!(オーシュオット)」というところを縮め、「オーシュ」といっていたことをこれは借りたもので、つまり「便所にしゃがんだ神」をさす、私的な暗号だ。
くりかえすように僕は、バタイユというひとについてなにも知らないので、この作品を、作家とダイレクトにつながったかたちで、自己表出として読むということがほとんどできない。つまり、解説にあるような、バタイユ思想の根底にある「相反するものは一つに重なる」ということがすでに打ち出されている、といった読み方は、いっさいできない。かといって、一個のテクストとして、ことばの網が生み出す、作家とは分離したかたちの物語個物として読むということも、第二部・暗合を読んだあとではできそうもない。この物語は、書いた本人にとっても、精神分析的な符号の発見に満ちているのだ。「暗合」までもフィクションと考えたとしても、これはそうした読み方の拒否宣言みたいにも見える。意図してつくられたオーシュという名前も含めて、それは、たぶん僕にはできそうもない。
それでも、この書きにくい書評をどうにか展開していこうとして(そんなおおげさなものではないけど)、本をとじて読みつつあるさいちゅうの感覚を呼び返してみると、語り手である<私>の顔がぜんぜん見えてこないことに気づく。どうということのない気づきではあるけど、それは、視覚に特化したエロティシズムということではないだろうか。
みずからの眼球でこのエロスの世界を眺め、眼球そのものと化したかのような文体が、熱を帯びて綴られていく。やがて、むこうの世界にも、眼球に代表されている「球体」があらわれはじめる。そして、結果としては、この物語そのものが、内側ではほとんど描かれない<私>の顔となっている…。
作中に登場する玉子などの「球体」は、アダルトビデオも顔負けの淫靡な用いられ方をされていて、「暗合」にあるように、「眼球-白目-玉子-尿」というふうに行われた連想は作家の識閾下に訴えかけていて、それがいわば精神分析的な作家の内面のあらわれだというぶぶんはたしかにあるとしても、僕はむしろ、これらはすべて「眼球」の代替物であって、「球体」のなかに「眼球」を見ている、といったほうがいいようにおもう。作中の「眼球」は、球体としてというよりは、むしろ「視覚」の顕現として、あるのかもしれない。あてずっぽの仮説ですが。
そこでなにが起こっているのかというと、それは、こちらを見つめる眼球、ということではないだろうか。視覚に特化した文体が、内面のあられもない表出のさきにこちらを見つめる「眼球」に出会ったのだと考えると、すごくおもしろくなる気がする。物語は、ちょうど鏡のように働いて、書く作家と、それを見つめる作家を立ち上がらせる。エロスというのは生の原動だけど、物語のむこうにやってくる眼球は、死体からくりぬかれるかたちで、まさに死をともなって、タナトスとしてやってくる。それぞれの眼球(視覚)に表象された「生」と「死」が通常デジタルな区分をされるところ、ここでは物語の働きによって、アナログな接続を果たしている。この小説はたぶん、描かれていることそのものの卑猥さということ以上に、この「死への架橋」とでもいうべき物語の動的な働きによってより生臭いものとなっていて、官能表現を単なる表層にとどまらない、生命にかかわるような、端的にいってしまえば「イクイカない」ということよりずっと深いものにしているのかもしれない。
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