第186話/ヤミ金くん⑦
加納と柄崎への報復を完遂した中二の丑嶋。
てっきりリンチに参加したクラスメートへの闇討ちはこれでおわったのかとおもっていましたが、丑嶋はまだやる気らしい。少なくともC組のほかの面々はそう考えている。彼らはまた全員でやっちまうかと話し合う。それでは、丑嶋をこの世から消してしまわない限り永遠にこの争いは終わらないことになるわけですけど、彼らはそんなふうにおもわない。いずれ丑嶋も音をあげると考えているのだろうか。
そのころ丑嶋は、どこかの小学校にきている。うさぎのいる飼育小屋の前にはクラスメートの竹本優希がいる。優希はC組でただひとり、リンチに加わらなかったにんげんだ。優希はここの小学校を卒業して以来、土曜にえさをもらえないうさぎたちのために毎回やってきて、世話をしているらしい。丑嶋はなにをしにこの小学校へやってきたのだろうか。待ち合わせをしていたとかいうふうでもないようだが…。
優希は丑嶋のことを気軽に「カオルちゃん」と呼ぶ。丑嶋は柄崎たちのいる中学校に転校してきたのだが、もともとの地元はここだ。優希と丑嶋が、仲良しというほどではないにしても、それなりに面識があったとしてもおかしなことはないが、優希は転校生紹介のときに馨という名前に妙な反応を示していたし、たんに名前を気に入っているだけなのかもしれない。
優希は顔に傷を負っている。リンチに参加しなかったことで柄崎にしめられてしまったのだ。丑嶋はそのことを訊ねるが、優希は取り合わない。逆に、闇討ちを続ける理由を丑嶋に訊ねる。
「やられたらやり返す。
なめられたらおしまいだ」
「おしまいから始めたら?
なめないと本当の味がわからないンだよ」
優希の返しは、よくわからない。
「おしまい」とは、「なめられること」だ。優希は、なめられてみてはどうかといっている。なぜなら、そうしてみないと本当の味がわからないから。ここで「本当の味」を「分かる」のは、なめたほうの主体だ。他者からの深い理解を得ようとおもったら、なめられてみないことには始まらないと、そういうことなのだろうか…。
「なめられたらおしまい」ということは、いまの丑嶋の状況にもいえる。
なめられて、気配だけをにおわせる暴力性に疑いをもたれてしまえば、あの仕事は成り立たない。
この闇の世界で生きるために、ときには、暴力でもって「暴力性」をまもらなければならないこともあるのだ。
このことは柄崎たちふつうの若いヤンキーにもいえる。
彼らの強みというのは、前回書いたように強烈ににおってくるその暴力を「ふるわない」という“貸し”を、周囲につくるところにある。
暴力に生きる人間は、なめられて、つまりその潜勢した「暴力」の気配に疑いをもたれてしまえば、じっさいにそれを行使して示さなくてはならなくなる。
対して優希は、なめられてみればという。
これは、暴力で生きるそのしかたへとはまったく反対に位置する。
しかし、それは、なにか動詞的に具体的な行動をおこす積極的なものではなく、どこまでも受身のものだ。
彼自身、周囲の人間をなめてまわっているようにも見えない。
暴力に生きる人間がなめられるということは、くりかえすようにその暴力の度合いのようなものに疑いをもたれることだ。
おそらく優希にとって「なめられること」とは、暴力的な語彙のすべてとりはらわれた悟りのような世界に身をおいて、素肌をさらすということなのだ。そうしてみないと、本当の味は出てこないと。
ふつうこうした言説はまったく暴力のない安全な評論家的立場から無責任に発せられるものだけど、異様なヤンキー、少なくとも三人にかこまれて毎日を生きる優希にとっては、たいへん負担の大きい思想だ。丑嶋が「ヘンな奴」というのもむりはない。
優希と別れて道をゆく丑嶋を、金属バットをもった集団が追ってゆく。C組の連中が報復にあらわれたのだ。丑嶋はふりかえるとカッターナイフをかざし、「最初の一人は必ず殺す」と、強いを意志を示しながらいう。丑嶋の目は、肉蝮大先生も真っ青になるほど真剣なものだ。ほとんどのクラスメートは、数で圧倒しながらも当惑してしまう。特にすでにやられているふたりなどはふるえてしまっている。
前へ出たのはマスクをして口の傷をかくした柄崎だ。柄崎はバットを置いて地面に土下座をはじめる。丑嶋が加納をしめた日、加納は鰐戸(ガクト)三兄弟というセンパイに呼び出しをくらっていた。加納はぼこぼこにやられてしまったので、もちろんそこへは行けない。センパイの怒りを買った加納は拉致られてしまった、だから助けてくれというのだ。
柄崎のはなしでは三兄弟のなかでも特に三男の三蔵がやばいらしい。C組の面々もはじめて聞くこのはなしに動揺を隠し切れない。
といっても、柄崎はたんに丑嶋に事情を話してもらうだけでいいという。ヤキそのものはじぶんがひとりでうけると。
プライドもなにもなく、涙を流して嘆願する柄崎の顔を、丑嶋はバットの先ですくいあげる。
「顔を上げろ!!柄崎!!
鰐戸とケンカすンならてめェーに付き合ってやるよ」
つづく。
扉絵はカラーなのですが、タイトルのフォントがいつもとちがう。
丑嶋らしくない展開といえばそうなのですが、ちょっとふざけたような編集のありかたには、そのことの自覚が感じられる。
おそらくこの手の一見安っぽいヤンキー描写は、「ヤミ金くん」をすすめるうえで不可欠なのだ。
これはたぶん、くりかえすように、気配のみを残し「暴力」を潜勢させる彼らの生業がどういうことであるかということの、より原理的な位相での描写なのだ。
優希の発言はなぞめいたもので、今回だけではその真意を知ることはできないけれど、おそらく、彼があのタコ部屋で見せていた異質感というものは、すべての執着を捨て去って、社会的な意味ではすっぱだかで生きようと志向する彼の根本思想からきていたのだ。
それは、闇世界の住人には住人なりの「関係」というものをまったく脱ぎ捨てて、「おしまい」から始めるということだ。
柄崎はセンパイというしがらみに縛られて、彼らの世界における暴力の経済に含まれている。しかし丑嶋もまた、「なめられてはならない」と、なめられればなにかが「おおしまい」だとして、これを覆そうとする。この経済のなかで丑嶋はいまもむかしも強者、あるいは世渡り上手といえるかもしれないが、いずれにしても、彼もまたこの大きな暴力構造の成員にほかならない。それは、ウシジマくん初期のころの、ヤクザや金主との描写にもあらわれていたことだ。
優希がいっているのは、そうした関係性から抜け出ないことには、その人間の本質のようなものはわからないのではないかということなんだとおもう。
人間関係の社会構造のなかで、ひとはつねにふちどられることで、ソシュール的に「社会的価値(=広がり)」を獲得する。
つまり、社会では、つねに「他者」が「私」を成立せしめる。「社会」というのは、どんな意味でも、そしてどこにでもある。たとえば柄崎は、あのようにして暴力の経済が基礎となったヤンキーの社会に生きている。そこで、鰐戸や加納やC組のクラスメートたちに上下左右からふちどられることで、社会的な意味での「柄崎」は成立している。
ところが、そうした構造主義的原理が好むと好まざるとにかかわらず機能するこの「世界」で、優希は「なめられてみたら」というのだ。
ひとびとがどうしてもかかえなければならない関係性というものを無視しようという点では行動的な感じもあるが、だけど受身なだけであることも気になる。
竹本優希はかつてないほど難解なキャラクターになりそうだ。
ところで、丑嶋は柄崎とともに鰐戸に挑むのだろうか。
いかに強いといってもまだ中二。発育の途中にある彼らが、果たしてセンパイに勝てるものか…。
勝てなくても、なめられないで済ますことはべつにできるだろう。
だけど丑嶋はそんな方法をとるだろうか…。
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