『実録・外道の条件』町田康 | すっぴんマスター

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(※注:ゲーム攻略サイトではありません)書店員。読んだ小説などについて書いています。基本ネタバレしてますので注意。気になる点ありましたらコメントなどで指摘していただけるとうれしいです。

■『実録・外道の条件』町田康  角川文庫



実録・外道の条件 (角川文庫)/町田 康
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「なにゆえにかくも話が通じないのであろうか。丁重な文面であるにもかかわらず、その文面のなかにときおり顔をのぞかせる強い調子、攻撃的な排他性のごときを改めて強く感じ、その根拠として彼らが標榜しているボランティアという概念について、普段そんなことについてまるで考えたことのなかった私が、この困惑を契機に深く考えるようになってしまったというのは、いったいいかなる因果・因縁であろうか。

(「地獄のボランティア」より)

芥川賞受賞第一作となった傑作小説集。

解説・松尾スズキ」裏表紙より




いまがそうだというわけではないけれど、疲れてはいるがなにか本を読みたいとき、なんでもいいからことばの海のなかに、できればたいして負担もなく身をあずけたいとき(というと語弊があるかもしれないが・・・)、僕は不思議と、町田康を手に取ることが多い気がする。このひとの語りのちからは立ち読みでもなんでも最初のページに視線をすべらせるだけでも瞭然、ことばが剰余価値のようにことばを生成していく、思考の有機的なすすみかたはまったく生き物の運動のようで、そういう意味では、町田康はどこまでも詩人なんだろうな。



以前に読んだ本がどういったものだったか、あんまり覚えていないので、たしかなことはまったくいえないけれど、このひとの小説に通底しているのは、世界と対峙した際のエトランゼ(異邦人)としての感覚ではないかとおもう。


本書では、やりたくもない仕事、それにかかわる蒙昧な外道のひとびと、そしてそれであるのになぜかそうしたかかわりをもたざるを得なくなったその過程を、ことばの細胞分裂のような生産性に任せながら、ごりごりと文章におとしていくのだけれど、そうした場所において、つねに語り手はある種の部外者としてそこにやってきて、「世界」とのまったくそぐわぬ感覚そのものを、全身を一個の感覚器として感知し、怒りや虚無やユーモアまで混ぜて筆圧も強く綴っていく。

だから、本書においては、ことばのそのままの意味で、語り手はエトランゼであるのだけれど、しかし、不如意な「世界」と接するときのひりひりするような生傷の痛みだとか、遠い他者への違和感だとか、“ファック・ザ・ワールド”だとかは、じつは芸術を成立せしめるもっとも基本的な毒を育むもので、これを忘れた瞬間、その固有の意味というものはなくなってしまう。表現は、つねに「理解されない」という“オトナの常識”を基礎として成り立っている。「どうもおれの見ている世界は、ほかのひとのそれとちがうようだ」というような傲慢さにもつながる自覚の先に、それはやってくる。だから、すぐれた芸術作品はつねに救いがたいニヒリズムと紙一重なのだ。

とはいっても、それがどのようなものであれ、人間というのはとしをとるごとに世界や社会のアウトラインみたいなものを直観的に知るようになり、洗練とともに鈍磨され、十代のころの圭角は次第しだいにとれていってしまう。

そうしたさきに、もしかするとそのことに自覚的な芸術家ほど、選択的に、方法としてみずからを「エトランゼ」の位置へ投げ込むのかもしれない。


本書がフィクションであるかノンフィクションであるか、定かではないし、そうした推測のあまり意味のないことを知りつつも、僕はこれはこの作家の方法的憤怒の実験というか、見た目よりずっと技術的な作品なのではないかとおもう。なんの根拠もないけど。



「紐育外道の小島」のおしまいには、以前住んでいたことのなる土地を訪れて、こういうふうに書かれてある。




「俺はかつてここで暮らしていたのにもかかわらず、こんな町で暮らすのは絶対に嫌だ。なぜなら生きにくいだろうから、と思った。しかし人間はどこで生きたって生きにくい。現に、ほら、地下鉄の階段がこんなに急だ」195頁




こんなところも、「生きにくさ」を選択してしまう芸術家の性とみるべきか、あるいは自覚的なものなのか、それはともかくとして、ここでは「外道」のひとびとがその表象となっているんではないかとおもう。


このひとは語彙の豊富なひとでもあって、本書にも、あまり見かけたことのない言葉がたくさんあった。それは、「外道」の、特に“蒙昧”への怒りということもあって、どこか、ぺダンチックな感じがよけいについてまわる気も、しないでもない。「紐育外道の小島」のしゅず子なんかはまったく典型的なんだけど、みずからの無知を知らない者ほど強いものはない。そうした相手に対して、難しいことばをふりまわしてその人間の無知蒙昧をつきつけることは、しかしじつは、しゅず子が「雑誌」を信奉してげいじゅつを語ることと大差がない。というか、形状としてはまったく同型なのだ。であるから、それがわかっているから、語り手の怒りは、第三者から見れば滑稽に見えるほど、奇妙に賢しらなものとなってしまう。理解を絶した外界に対し、同じしかたで理解を絶していては、まったく由がない。そこから表現がやってくるのだが、ここでの町田康は、この「外道」たる異世界のひとびとに対し、徹底してエトランゼの姿勢を貫いている。同情のかけらもなく、まったくの、完全な異邦人として、彼らを描出していく。町田康の作品群がどういったじゅんばんで書かれていっているのか、本書がじっさいには何番目くらいに書かれたものなのか、まったく知らないけど、これは芥川章第一作ということで、このひとなりの原点回帰ということだったのかもしれない。



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