ケンカ自慢の後輩や、
チャラ男自慢の後輩、
HG(ドイツ語で読もう!)の筋肉自慢の後輩、
それにそういうのの仲裁がうまそうな先輩や、
がたいのいいロボットみたいな先輩…、
そうした知り合いが集団でケンカに負けた
という夢を見た…。
夢のなかでは、うわさ好きの同期がその情報をネットのニュースで得たらしくて、記事を引用しつつ、僕ら同期共有の掲示板に書き込んでいた。
ふだんは夢の内容なんてまず覚えてないけど、今回はその同期が「たまには××ニュースも役に立つね(笑)」という一文で掉尾を締めていたことまで覚えている…。
事件は札幌で起きた(これもはっきり覚えている)。
十人くらいで旅行にきていた彼らは(女の子はいなかった気がする・・・)、これもまた旅行かなんかでやってきていた酔っ払いの大学生たちと衝突、フルボッコにされてしまった。
次にみんなと会ったときどうやってケアしよう、とか考えているところで夢はおわっているので、たぶんそこらへんで目が覚めたんだろう。
ケンカに負けた男というのをケアするのは、どうするのがいちばんいいのだろう。
「ケンカで勝敗がつく」ということは、人間の野性的なレベルにおいて優劣がつくということでもある。
大人になって社会に参加するようになると、そもそもケンカをすることがなくなるし、そういうばあいがあっても、ふつうのオトナは事後のさまざまなことに瞬間的におもいを巡らせるので、そういうリスクは犯さない。
また、仮にケンカで大負けしても、社会という大きな地図の一部として働くために身につけたさまざまな技能や、それをうまく活用して自立しているという実感は、子供のときほどには「敗北感」というものを膨らませない。
要は、「あいつにはケンカでは負けたが、この領域では負けない」とか「ケンカなんてささいなことだ」とかいう具合に、重点の置き換えが無意識にでもあたまのなかでできるようになるのだ。
たとえば空手の道場などでは、こうした野性のレベルにおける「人としての」上下が明確になり、またそれがそこではすべてになるため、置き換えがきかず、ふつうでは、なかなか現実を認めて(つまり敗北感を敗北感のまま受け止めて)うまくやっていくことはむずかしい。この、特定の誰かに対して「あいつにはなにをやってもかなわない」というような、覆しがたい「敗北感」を抱えて生きていくのは、たいへんにつらい。だから僕らは帯や級、段による上下関係をあっさり受け容れるのではないかという考察は以前 した。
とはいえ、このくらい・・・つまり僕のみた夢くらい、大勢のにんげんが同時にそうなると、ぜんたいもなんとなく重苦しくなりそうな予感がする…。
鼻折ったエピソードでも話してきかせればいいかな。
しかし、
彼らのうちの誰かを直接ケアするでもなく、
彼らのケアで疲れきった誰かをまたケアするでもなく、
ましてやその旅行に参加していたわけでもなく、
ニュースというきわめて第三者的な情報源から、
しかも人づてに事件を知るというのは、
なにか現在の僕と彼らとの距離を示すようでもある…。