■『私小説 from left to right』水村美苗著 ちくま文庫
- 私小説―from left to right (ちくま文庫)/水村 美苗
- ¥819
- Amazon.co.jp
「『美苗』は12歳で渡米し滞在20年目を迎えた大学院生。アメリカに溶け込めず、漱石や一葉など日本近代文学を読み耽りつつ育ったが、現代の日本にも違和感を覚え帰国をためらい続けてきた。雪のある日、ニューヨークの片隅で生きる彫刻家の姉と、英語・日本語まじりの長電話が始まる。異国に生きる姉妹の孤独を通じて浮き彫りになるものとは…。本邦初、横書きbilingual小説の試み」裏表紙から
時間はかかったが、けっこう夢中になって読んでしまった。最近よんだ小説ではいちばんおもしろかったかも。
基本となる情景はほとんど動かない。語り手である「私=美苗」が部屋にひきこもってうじうじしているだけ。
美苗は今年で渡米20年目だ。20年前父親の仕事の都合でアメリカにわたってきた水村一家は、時代もあって、当初は、「the big city of dreams」たる、「アメリカ」という記号に大きな期待をよせていたが、やがてアメリカで東洋人であることの意味を発見し、宿命的な違和感を抱えながら日々をおくることとなる。美苗は日本と日本語に固執し、明治時代の、現在の日本語の曙を意味する「日本近代文学」に没頭し、記号的な「日本」に郷愁とあこがれのような感情をもっていた。しかしやがて急成長を遂げ、「日本」ということばの意味が決定的にかわってくるにつれ、美苗のこころのよりどころとしての日本は失われてしまう。
内容としては、このアメリカに対する違和感、日本に対する違和感、すなわち存在することの違和感、そしてこの20年についての後悔、そういった感情のぐるぐると混ざり合った、なんともいえない精神的な葛藤そのもののようだ。基本となる「現在」にほとんど動きはないが、美苗はくりかえしくりかえし過去を思い返し、「現在」と同じ文体(語り口)で回想をするので、どれが基本の時間帯だったか判然としなくなってくるし、次々とアルファベットであらわれてくる登場人物も誰が何だったかよくわからなくなってくる。それは、まさに語り手の「現在」の認識が、目の下にくまの見える、一種病的な感じすら漂わせた「後悔」の感情によって、つねに後ろ向きに、過去から連動したものとして、雪のなか静的に漂っていることによっている。
それにしても、「私小説」というタイトルで私小説を書くという、なんというかファンダメンタルな感じはなんなんだろう。
ここにあるのは、英語という「普遍」を、私小説という、徹底した「個」の位置から語ろうという試みだろうか。
小説のおしまいのあたりにはこうあった。
「言葉というものは国連の前に並んだ万国旗のように、英語があり日本語がありというわけではない。あの国連の前に並んだ万国旗が国と国との力関係を隠蔽するのと同様、万国旗のようにさまざまな言葉が世に並列していると思うのは言葉と言葉との間の力関係を隠蔽することでしかない。
(略)。
英語で書くということは、世界中の言語に翻訳されるということであり、それ以前に、そのまま世界中の人に読まれるということなのである」371頁‐372頁
本書は英語交じりのために横書きとなっている。
だが、それはあくまで「英語交じり」であって、日本語交じりの英文ではない。それは分量的な問題以上に、筆者の(美苗の)思考が多く日本語で行われているということだとおもう。
美苗は20年もアメリカにいながら、それほどまじめに英語にとりくんではこなかった(もちろん通常のレベルでは英語をつかえる)。そのかわり、白人たちのなかでつよく「日本」を意識し、「日本語」にしがみつき、特に「日本近代文学」にこだわってきた。
美苗はそのことを後悔している。いまでは英語はもっとも普遍的な言語なのだ。しかし英語となると美苗はなにを書いてよいかわからない。ここで言語は、小説にとっての恣意的な道具では決してないのである。小説家としての「美苗」の出発点はどうしても日本語でしかありえなかったのだ。
しかし日本語で「いまや英語は普遍語である」と“書く”とは、いったいどういうことなのだろう。ここで言語はただの媒体、表現の道具ではない。思考の最小単位であり、オリジンだ。だから「英語は普遍語」という文章をただ英訳すればいいというだけの問題ではない。美苗は少なくともここで、「日本語」を通して「英語は普遍語」という事実を体験しているのだ。この事実を、他者に向けて語るとき、すなわち「小説」として示すとき、作者はどのような文体で語るべきなのだろうか。作者は、ある意味では日本語に固執しすぎたことでこの事実をより強く体感している。「英語はもはや普遍語だ」という直覚は、作者の「日本語人(日本語で思考するひと)」としてのありかたからやってくる。つまり、「英語が普遍的」であるということをつきつけたのは、ほかならぬ「日本語をつかう私」だったのである。この明白な事実を語るために、作者は「私」にこだわらざるえなかったのではないだろうか。
また「水村美苗」の書く小説は日本語でしかありえない。しかし日本語で英語の普遍性を「普遍的」に書くことなどできない。なぜなら普遍的な言語とは「英語」だからだ。したがってこの小説が「普遍的」になることは原理的にないのである。そうして、「私はこうおもった」という、つねに私の感覚に出発点をおいた、きわめて「日本的」な方法をとる以外なかったのではないか。
僕じしんは明治時代の文学にたいしてくわしくもないし、自然主義とか私小説とかもあまり読んだことはないが、僕がこれまでこういった種類の小説に抱いていたイメージとは、しかし本書は大きく異なっていた。それが時代的な洗練ということなのかもしれないが、「美苗」にぴたりとくっついて小説のなかの世界をともに体験しているという感覚が強くあった。こういう感覚は、読者側の意識のおき方によってもちがいが出てくるものだとはおもうが、本書のばあいはまったく文章の力としかいいようがないようにおもった。これは僕個人の意見だが、たとえば雪のふる場面をして、目前に雪がふる窓越しの景色が視覚的に体験できるというのは、それはたいしたものだが、それなら映像作品でことが足りてしまう。小説には小説ならではの「追体験」があるだろうし、そう信じたい。個人的には。そういう点で、本書はまったく「小説」らしいのだ。これはたぶん僕の錯覚で、ところどころに付されている写真がイメージに訴えかけて、そういう気分にさせてるぶぶんもあるとはおもう。しかし…、うまくいえないのだが、本書でも美苗が文学全集をひらくとき、黴のにおいが云々という書きかたをしているけど、そういう、本を読むことのあの不思議な喜び、ただ手にしただけでどこか森厳とした気分になるあの感じをナチュラルに思い出させてくれる小説だった。
- 日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で/水村 美苗
- ¥1,890
- Amazon.co.jp
- 日本語で読むということ/水村美苗
- ¥1,680
- Amazon.co.jp
- 日本語で書くということ/水村美苗
- ¥1,680
- Amazon.co.jp
- 本格小説〈上〉 (新潮文庫)/水村 美苗
- ¥820
- Amazon.co.jp
- 本格小説〈下〉 (新潮文庫)/水村 美苗
- ¥740
- Amazon.co.jp