アグリー・ツッキーニ | すっぴんマスター

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(※注:ゲーム攻略サイトではありません)書店員。読んだ小説などについて書いています。基本ネタバレしてますので注意。気になる点ありましたらコメントなどで指摘していただけるとうれしいです。

いまのじぶんの状況というものを客観的に省みると、こんなにのうてんきな僕でも、ときどき不安で不安でたまらなくなる。それは将来のこととかお金のこととかでは、じつはない。僕は本質的には楽天家だし、他人に呆れられるくらい物欲に欠けた人間で、車だとかバイクだとかにも興味ゼロ、結婚願望もないし、じぶんの子供なんて考えただけで笑ってしまう。もちろんその方面で不安がないわけではない。僕は一人っ子でかなり遅く生まれた子供でもある。しかし、まあなんとか、なるようになるだろうぐらいの心持ちでいつもいる。むかしからそうなのだ。
いま不安なのは、じぶんのやってきたことがどこまで正しかったのか、25年の人生…特にここ三年くらい、ずっとまちがったことやってるんじゃないかということだ。僕はほとんど毎日悪夢を見るが、そこにはよく、中学時代の久闊の友人や、あまり交流のなかった大学の学科の連中なんかが出てくる。そして夢の中の彼らはたいてい僕のことを指差して笑い、この状況をあざけり、胸のはりさけるような鋭いことばを投げてくる。これはまさに、僕における不安の、わかりやすいかたちだ。僕は他者にどう見られるか、どう評価されるかを気にし、そればかりか恐れているのだ。

いかに内面的な表現を仕事とするひとでも、他者との関わりなしで生きていくことは不可能であって、好むと好まざるとに関わらず、僕たちは相対的な評価のなかで生きていて、そんなことはいちいち指摘するのもまぬけな自明のことだ。しかしこれを「恐れる」となると、はなしは少しちがってくる。それは、どのように評価されたいかという「理想」と、みずから自覚する「現実」とのずれを端的に示すものだからだ。僕は明らかに、生きるためのよりどころとして精神的にすがる、個的な本質と信じる幹のぶぶんの真実を看破されることを恐れている。それはつまり、事実はそうではないということをじつはじぶんで知っているということである。日常、演技の占める割合が大きい人間ほど他者の評価を意識するのはこのためだろう。理想がきちんと表面をコーティングできているか、確認しないわけにはいかないのだ。

この不安を取り払うには、当然外と内を近づければいい。このとき、たぶん二通りの心的ふるまいが予想される。つまり、努力を重ねて「現実」を「理想」に近づけるか、あるいは卑屈にじぶんをおとしめて「理想」を「現実」に近づけるかだ。因習的な“謙譲の美徳”という発想は、もしかすると後者のありかたを助けてしまうかもしれない。ここでいう「理想」とは他者の規定するものなので、卑屈な発言をしたからといって外的なありようが変わるとは限らず、謙譲の美徳のもとではむしろ外形はさらに現実から離れて美化されてしまうかもしれないが。

多少の差はあれ、誰でも「演技をしている」という感覚はあるはずで、それはつまり、これもまた多少の差はあれ、他者からの評価ということも、多くのひとは気にとめているはずだ。それを恐れるのは、くりかえすように真実が看破されることがこわいからだ。としたら、重要なのはそのさきにあるこの分かれ道なのだろう。というか、そのことの総体としての自覚と受容こそが、成長を続けるためのモチベーションとなるのかもしれない…。