■『阿Q正伝・藤野先生』魯迅 講談社文芸文庫
- 阿Q正伝・藤野先生 (講談社文芸文庫)/魯迅
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「“人が人を食う”ことを恐怖する主人公の『子供を救え』の叫びと共に封建制度・儒教道徳の暗黒を描く『狂人日記』。革命のどさくさの中の阿Qの死と悲喜劇を通して“革命と民衆”を鋭くつく『阿Q正伝』。『孔乙己』『酒楼にて』等。
辛亥革命前後の混乱期に敢然とペンを執って立ち上り、中国近代文学を切り拓いた魯迅が、時代の苦悩と不屈の精神を伝える十三篇。魯迅を読まずして中国を知ることはできない」裏表紙より
歴史の古い中国というお国のせいか、僕はてっきりこのひとを500年くらい前の作家かと勘違いしていた。浦賀和宏の『記号を喰う魔女』を読んだとき、巻末の参考文献のなかに『阿Q正伝』があって、このなかの「狂人日記」が“人喰い”のはなしであることもどこかで知っていて、たぶんそういう予備知識も、この作家をおおむかしのものと見なす理由であったとおもう。しかし魯迅は20世紀の小説家なのです。先日読み終えた折口信夫より新しいのです…。
しかし新しいとはいっても第二次大戦より前であって、そのうえ中国という、国そのものの理解がむずかしい世界のおはなしなので、魯迅の書く物語は二重の意味で僕ら日本人にはわかりづらい。“人を喰う”という言い回しは比喩ではない、という具体的な確認なども含め、本書には「解説」が欠かせないでしょう。
なにか慎重な書き出しになってしまったけど、率直な感想を書くと、僕はとても興味深く読んだ。読む前は正直言って肩にちからを入れて準備するような覚悟があったのだけど、まったく必要なかった。すらすら読めたし、なにしろおもしろかった。翻訳がよかったんだろうか?
読み終えて気になったのは、これは短篇集なのだが、そのほとんどにおいて語り手が観察者であるということだ。くりかえすように僕の中国認識は学術レベルではまったくないので、だから執筆背景について、ここは素直に「解説」を説明書扱いすることにして、魯迅の描く「中国」はどこまでも封建的であり、伝統的な儒教思想に芯から支配された構造であり、そして彼の見つめ、描くひとびとはどこまでも貧乏である。
魯迅の書くものはこの状況の打破、社会改革、革命の文学である。革命的な小説であるかどうかは、ほかの中国人作家を知らないのでわからない。
そこで、僕は、魯迅の選択した「観察者」という語り手の位置が、重要な鍵なんではないかとおもうわけです。魯迅はみずからの過ごす国の閉塞的状況を、『吶喊』という作品集で次のように書いているそうです。
「かりに鉄の部屋があるとする。一つも窓がなく、どうしてもうち破ることができないのだ。なかには大勢の者が熟睡していて、まもなくみな窒息しようとしている。しかし昏睡したまま死んでしまうのだから、死の悲しみを感じることはない」解説より
世界は鉄の部屋のように閉じている。酸素は次第に薄くなるいっぽうであり、扉が開かれ、新しい空気が流れこんでくる気配すらない。しかしひとびとは眠っている。この危機的状況に気づくことなく、植物のように眠りをむさぼり、そのまま死んでしまう。ここを抜け出るには、とにかく眠っている人々を起こし、じぶんたちが鉄の部屋のなかにいるという事実をまず伝えなくてはならない。
しかしここでもっとも大きな…というより厄介な問題は、重々しく閉じた扉や、みずからのおかれた状況に気を廻すことなく蒙昧な眠りにつく人々、ではなく、彼らを起こそうと、蒙を啓こうと行動を起こす者も、じつはすでに鉄の部屋の内側に含まれているという事実だとおもう。ある社会のシステムに組み込まれた者のつかうことばは、その社会のシステムにおいて生成され、働いている言語だ。これは「解説」にも指摘されているが、「狂人日記」では、「狂人」が「日記」のなかで「人喰い」を通して中国社会の欺瞞を告発するというおはなしだが、結果としては、「狂人」じしんも人を喰っていた。ここでいう「狂人」とは、もちろん彼以外の他者がつけた社会的呼称であって、彼じしんの本質とは無関係だ。つまりみずからを“社会的に“規定するあるシステムのなかで、このシステムの欠陥を指摘した「狂人」も、結局のところそのシステムのなかにおいてある場所を占め、担当する「狂人」として「吶喊」していたにすぎないのである。
しかし、このおはなしは、はじまりにしかあらわれない「語り手」がこの「狂人」の「日記」を受け取って読むという形式になっている。「狂人日記」に関わらず、本書におけるほとんどのおはなしに見られるこのような形式は、結果としてぜんたいを公平な位置に導いているのだとおもう。読み進めながら強く感じられるのは、とにかく貧乏な「わたし」の友人・知人たちが、知らないところでシステムに翻弄され、多くの場合病気かなにかでいつのまにかあっさり死んでしまっているといった感覚だ。「わたし」の観察する人々は、それぞれの場所から、それぞれの声音でもって悲痛な叫びをあげている。そしてこの叫びがこのように悲痛であるゆえんは、僕は「狂人日記」にわかりやすく代表されるこの形式のちからなのだとおもうのです。叫びをあげるものもそれを聞くものも、さらにいえば魯迅じしんも、いかに自覚的に社会を振り返ってみようと、その視点や思考作法はどこまでも社会に与えられた“場所“に依存したものであり、システムの規定する言い回しであって、その批判は結局のところみずからに返ってくるものなのではないだろうか。たびたび見られる『論語』などを引用した慣用表現は、そのままたんなる慣用表現なのだといえばそうなのだが、もちろん考えすぎだとおもうが、僕には魯迅が意図的に用いた皮肉な「社会的言語」のようにおもわれた。
だがもしここに、おなじシステムの内側にありながら、叫びを上げる人物とはべつの場所からの「観察」が設けられたとしたらどうだろう。事態はより高次の、「叫びをあげる人物」から「叫びをあげている人物を観察している人物」へと移行し、はじめて公平な描写が可能となるのではないだろうか。もちろん、この観察者…「わたし」達も、おなじシステムのなかで生きる人間であるから、厳密な意味でここを抜け出すことはできないのだが、しかし「阿Q正伝」など、明らかに「わたし」というものがひとりの存在者でありながら、ほとんど実体のない語り手も見られた。
「解説」では、魯迅の生きた中国という国と、僕らの住まう日本の社会があまりにかけはなれたものであるために、その作品がどれほど理解されているかということを危惧していて、それもよくわかったのだが、僕個人としては、中国の理解において、中国の歴史や風土なんかを学ぶことも非常に重要だが、それと魯迅を読むことは、着地点はおなじでも、まったく意味が異なったものだとおもう。むしろ僕は、なにも考えずに小説を読んでしまい(だからそれは映画とかでもいいわけだけど)、その雰囲気を体感することも、おそらく逆側からの理解同様、けっこう意味があるとおもいます。なにが言いたいかというと、とにかく「魯迅」という名前の厳格な雰囲気をおそれることはない、ということです…。

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