『人はなぜ戦争をするのか』フロイト | すっぴんマスター

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(※注:ゲーム攻略サイトではありません)書店員。読んだ小説などについて書いています。基本ネタバレしてますので注意。気になる点ありましたらコメントなどで指摘していただけるとうれしいです。

■『人はなぜ戦争をするのか エロスとタナトス』ジークムント・フロイト著/中山元訳 光文社古典新訳文庫

人はなぜ戦争をするのか エロスとタナトス (光文社古典新訳文庫)/フロイト
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「人間には戦争せざるをえない攻撃衝動があるのではないかというアインシュタインの問いに答えた表題の書簡と、自己破壊的な衝動を分析した「喪とメランコリー」、そして自我、超自我、エスの三つの審級で構成した局所論から新しい欲動論を展開する『精神分析入門・続』の2講義ほかを収録」裏から



フロイトの読みかた…、どんな態度で接すればいいのかという心構えって繊細だなといつもおもう。「なぜそうなるのか、そう言えるのか」という疑問がつねにつきまとうからだ。フロイトの理論は、もちろんある程度の霊感というか、確信を抱くまでの過程に医者の経験的予感のようなものが多少は関わっているにちがいないけど、それ以上に臨床的な検証と綿密な分析に当然基づいているはずなのです。僕らは、いま片手に握る生卵を手放せば、それが落下し、地面に叩きつけられ、割れてしまうことを確信をもって予言できる。なぜなら僕らは、地球には重力というものがあって、モノは支えがなければ下に落ちてしまうし、卵というのはかたい床にぶつかればかんたんに割れてしまう脆弱なものだと、経験的に知っているからである。これまでの人生で、モノは上から下に落ち、卵はかんたんに割れると学習しているのだ。しかしじつは、ここにはほんとうの意味での、ゆるぎのない絶対的確実性はなにもない。僕の立つこの地点だけに急激な重力変動が起こっているとか、この卵はじつは遺伝子操作でつくられた超頑強輸送用ネオ生卵だとかだとしたら、この仮説はかんたんに壊れてしまうのである。すべての演繹は帰納に基づくというのはそういうこと。

だからこのひとのものを読むときは、それがかんたんなものであればあるほど、とりあえずそういうことなのだと、小説を読むようなつもりで、テクストとして柔軟に読んでいくことが大切だとおもう(ex.原父殺害説)。そうすると、フロイトの自覚的なありかた…僕はここで、すべてを認めてかかる=すべてをとりあえず疑ってみるというありかたを科学的姿勢と呼んでいるのだけど、そういう態度がきわめて刺激的で、おもしろく感じられてくる。仮想敵による反論や、本書にも見られるように聴き手を想定した講義という形式(ここでは非常にわかりやすい調子で書かれてあるが、じっさいに講義されたものを収録したわけではないようだ)など、論文でありながら常に読者を意識したような書きかたは、フロイトの慎重な姿勢の結果だとおもう。アメリカの言語学者ノアム・チョムスキーは、理論はつねに反証可能でなければならないと言っていたそうだが、これは日常的なレベルでもっと推奨されるべき思考作法だと僕なんかはおもう。それというのは、みずからの理論に一定以上の確信を抱くいっぽう、たにんのはなしをよくきいて、そうなのかもしれないと、とにかく目の前にある可能性をいったん認めて、また同時に疑ってみて、止揚することなのである。最初にある「みずからの理論」についての「一定以上の確信」ということじたいが、そもそもそういった態度から、あるいはその自負から生まれ出てきているはずだと僕なんかはおもう。


と、ここで過去のフロイト書評を読んでみたらほとんど同じこと書いてました。しかもむかしのほうがなんか上手く書けてる気がする…。



■『幻想の未来/文化への不満』フロイト
http://ameblo.jp/tsucchini/entry-10070167764.html


幻想の未来,文化への不満 (光文社古典新訳文庫 Bフ 1-1)/フロイト
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というわけで、ああそれわかるわと、かんたんに「共感」できないのがフロイトなのだけど、なかでも「生の欲動=エロス」の対極に置かれた「死の欲動=タナトス」という概念はもっとも理解がむずかしい。これは晩年のフロイトが到達し、確信していた理論だが、素人にはミクロな仕方におもえる精神分析という方法を、より高次元に適用し、文明や宗教といった人間の文化的営みの分析まで試みる「メタ心理学」も非常に刺激的だし、またリビドーの数量的な捉えかた、意識を場所として分類する局所論的分析なども僕のような人間にはいつでも新鮮なのだが、こちらのタナトスという概念はそんなフロイトの理論のなかでももっとも難解だとおもう。

これについては「不安と欲動の生」のなかに書かれていて、ここでその内容をまとめることはとてもではないができないのだが、誤解をおそれず、あるいはそれを承知で大部分をすっ飛ばして書いてしまえば、生命における欲動には、治癒能力などからもわかるように、以前の状態を再現しようとする傾向がはじめから備わっているというのである。もしこれを自己保存の能力として、生の方向の根源的な欲動とすればなんということもないのだが、フロイトはここで考えるのだ。いまエロス的な生の向きに状態が回復されたのなら、今度は失われた死の、タナトスの向きへの、状態の復元が行われるのではないかと。フロイトには、妙ないいかたになってしまうのだが、こう考える動機もあった。このタナトスをもってすれば、神経症的な自己破壊的反復強迫を説明できるのである…!

さまざまな過程を経て、フロイトは人間の欲動を性的なものと破壊的なものとに分類した。フロイトでは、マゾヒズムはうちに向けられたサディズムである。僕たちの暮らす社会は、ふつう法律や人間関係のルールというものが機能しているから、こころが要求するままに破壊活動を実行することはできないし、またこころのなかで自我を厳しく観察する“超自我”のもたらす良心もこれをさまたげる。そしてうちに返ってきた攻撃欲動はマゾヒズムとなって自己を破壊する。


「するとマゾヒズムは、人間には自己破壊を目的とする傾向が存在することを保証してくれます。自我はもともとすべての欲動の動きを含むものですから(略)、そこには破壊活動も含まれていることになります。するとマゾヒズムの起源は、サディズムよりも古いと考えられるようになります。そしてサディズムは外部に向けられた破壊活動であり、これが攻撃性という性格をおびることになります」P238


すると~以降のところがよくわからないなぁ…。傾向があったからこそ破壊欲動はうちに向けられたわけで、だとすればそれは最初からあったのだと、そういうことだろうか…


とにかく、フロイトはここから、あくまで慎重にだが、マゾヒズムを根拠にして自己破壊欲動を導き、反復強迫を説明していこうとするわけです。



いやーおもしろいですね。けっこうだらだら読んでしまったけど、読み終わるのもったいない感じだった。中山元の解説もまた例によっておそろしく詳解。大学の心理学の授業って、こんな感じなのかな~