「地方の中学教師・吉田希美子が出会い系サイトで知り合ったのは、陰気な独身公務員・片原盈だった。平凡な日常の裏側で、憎悪にも似た執拗な愛撫に身を委ねる彼女は、ある時、顔を消された自分の裸体が、投稿サイトに溢れているのを目にする。その時、二人は…。人格が漂流するネット空間を舞台に、顰蹙の中でしか生きられない男女の特異な性意識と暴力衝動に迫る衝撃作!」裏表紙から
『日蝕』に続き、平野体験二冊目。平凡な女教師・吉田希美子は、ふとしたことから出会い系サイトに手を出し、片原盈というあやしい男と知り合い、次第しだいにアブノーマルな露出行為にはまっていく。ふたりの行為はやがてひとつの事件を起こすに至る…。
これで二冊目なのでなんともわからないが、『日蝕』と比べれば文体は平易で、ムズカシイ漢字もない。描写は片原盈中心の箇所もあるが、基本的には吉田希美子の位置から書かれていて、語り手は“筆者”として神の視点でふたりを語る。この“筆者”というのが平野啓一郎じしんのことであるか、またそこから展開して、この“事件”が特定のある「事件」をモデルと意識したうえで書かれたのか、それはよくわからないが、この“筆者”というのがおはなしとしてどんな立場なのかということは興味深い。
帯に書かれている文章を読むと、露出行為や淫猥な画像の投稿という、あたまに血ののぼった有識者にはとてもいじりやすい要素を孕みながら、しかしそれでも、そのような愛のカタチでしか生きられないのだというような現代の倒錯した性現象と、さらにインターネットが根本的に抱く危険と、〈ミッキー〉としての希美子、〈ミッチー〉としての盈が顕す人間の二面性のような読みを、出版社側は期待して売り出しているようだが、そういうこととはまたちょっとちがうような気が僕にはした。明らかにこの小説において、「ある小説においてそれを書いた小説家は神だ」というような安っぽい意味合いとは別に、“筆者”は神である。
事件がはじまる以前、まだミッキーとミッチーが出会う前の両者の過去の描写では、どこか真理の…「正解」の存在を感じさせるような書きかたが見られた。たとえば、阿部和重は大作『シンセミア』などでも似たように歪んだ性行為などを書いていたが、感触じたいは正直に言うとうろ覚えなのだが、どちらかというと阿部和重のほうは展開志向であって、げんにその行為が倫理的にどうだとか、悪だとか善だとか愛だとか愛じゃないとかは、あくまで登場人物のかんがえのなかにあって、物事を右と左にわけるようなルールは特に感じられなかったようにおもう。
しかしこちらでは、僕はどこかに真理を、ものごとのことわりを、ふるまいの「正解」を感じてしまった。それも、表面ではいかにも公平そうな姿勢を見せつけ、げんにそのように慎重に書きながらだ。
これはなにかに似てるなと考えたら、あれなんですよね、テレビの「有識者」たちの言動なのですよね。とりあえず頼っとけばまちがいない、「共有」認識として一般に認知されていると「共感」されている「社会のルール」的なことにまったく依存した「知識人」たちのことばのようなのですよ。最終的に“事件”がどちらかというと喜劇のように、むしろスラップスティック的な雰囲気すら醸し出して扱われていることもこれが理由かとおもう。つまり、筋としては、うえに書いたようなことのリアリズム的な描写に見せかけながら、ぜんたいでは、「公平な立場」に隠れて、こういったことをじっさいにはよく知らないまま、共有認識の幻想に共感しながら一方的に批評するありかたを批判しているのではないかな。184ページでは、事件後の顛末を書く際、「有識者」ということばが記号で強調されているが、この読みかたをするうえでこのぶぶんは平野啓一郎が残したヒントのような気がしてくる。
平野啓一郎は『ウェブ人間論』という本で、『ウェブ進化論』の著者・梅田望夫と対談しているし、最新作の『決壊』もインターネットが中心にあるようだ。最近の作家的主題なのかもしれない。
・『日蝕』平野啓一郎
