マンガの感想がはじまって以降から読み始めたという新規の読者さまも増えているとおもうし、いい機会ですので、当ブログで多用している「共有」と「共感」の概念についていまいちど記しておきたいとおもいます。これはもちろん、僕がコノテーションを含ませ、てきとうに意味のあてはまりそうなことばを探してかってに使っているだけなので、他の場所では意味が通りません。また僕じしんとしてはこんなことはもう常識だと考えていますし、いまさらそんなことを訳知り顔で、と言うひともいるかとおもいますが、同様にしてそうでないひともいるはずで、ここでの僕の目的はペダンチックにふるまうことではなく、あくまで投げかけることなので、そういうふうに受け止めてもらいたいです。
軽く前置きを。ちょっと前にバイト先の子と音楽のはなしをしていたら、「tsucchiniさんは理論派なんですね。じぶんは感覚派なんで」みたいに安直なことを言われた。これ、勘違いしてるひと多いとおもうのだけど、理論から入るひとなんていないですよ。少なくとも僕はそうです。理論はただのことばです。衝動はことばに先んずる。このことはとりあえず忘れないでほしい。いかに技術的に、また構造的に音楽を聴いたり小説を読んだりするひとでも、まず初めに感情の動きということは当然あるのですよ。そしてもしこの芸術作品がもたらした情動を、会話なり文章なりで他者に伝えようとしたら…いや伝えるだけでなく同じような体験をさせようとしたら、僕らではじつは同様にして表現の道具を手にして、小説を書いたりうたをうたったりする以外に手はない。「詩の評価は詩でしかできない」ということです。
しかし現実には、僕らはふつうに「すごい」とか「おもしろい」とかいう、茫漠とした、概念とすら呼べないような表現で満足できてしまいますよね。ここでより正確に、芸術表現以外の方法で伝えたいという衝動が出てきてもだからべつにおかしくない。そういうとき、ものを読んだり聴いたりしたのちに、たとえば感動や違和感や不快感を正確に説明することばが必要になってくる。ただそれだけのはなしなんですよね。ここでは「伝達」ということに特化していますが、たんにあたまのなかで納得するだけでもこれはぜんぜんちがうはず。
…まず最初は音楽でした。僕はヒップホップを聴き始めてせいぜい八年というところですが、テレビを見ないせいか、特に世俗に毒されることもなく、また逆にその手のことに造詣の深い友人もいないためにアングラにどっぷりということもなくて、量はともかく、けっこうバランスよく接することができてきたんじゃないかと自負している。そんななか、僕はある種類の音楽にイラッときているじぶんに気付いたのです。それはたいていバイト先の有線から流れてくるラップ・チューンだった。ということはたぶんヒット作だ。最初はそういうセルアウト(=売れ線ねらい)に対する嫉妬かと考えていた。しかしどうもちがうようだ。この衝動はもっとからだの根っこのほうから、ふつふつとわきあがってくるものだ。ラップが下手くそということも、それはまああったけど、なかにはそうとうに上手い者もいる。トラックだって悪くない。ではいったい、僕のこの感覚はなんなんだろう…?それでわかったのは、これらの音楽が要は受け手(リスナー)に媚びた音楽なのだということでした。僕はジャズから音楽に入り、フュージョンや坂本龍一を通って、現在のこの音楽を至っている。これまで聴いてきた音楽のなかには、カラオケでうたいやすいようにとか、できる限りたくさんのひとに届くようにといったポピュラリティの姿勢は皆無だった。すべて、主体は音楽にあった。音楽をつくることに目指すさきがあった。だからこそ僕は彼らミュージシャンをかっこいいとおもい、憧れたし、彼らの表現がいったいどんな事態なのか理解しようと何回も聴きこみ、批評を読んだり楽器を練習したりしてまで研究にはげんだ(大袈裟かな…)。しかしこちらの、ZEEBRAが「ポジティブ・ソング」と揶揄した音楽にはそういった向きがまるでなかった。あくまで消費される商品でしかなかったのです。
しかし、ただやだとか嫌いとか言ってるだけでは赤ん坊と変わらないので、「大衆に媚びる」というのがどういうことなのか、それを受けとった我々の内側ではどのような感情がわきおこるのかということを考えてみた。そしてわかったのは、僕を含めこのような音楽に我々が「感動」するとき、そこではどうやら自身の記憶との共鳴が起きているらしいということでした。つまり、たとえば「恋愛ポジティブ・ソング」を聴くとき、僕はあきらかに自身の恋愛のことを想起し、感動していたのです。これに気付いたときはほんと不思議な気分になった。ミュージシャンはできるかぎり多くのみんなのこころに届くようにと、たとえばそれが恋愛ソングなら、すべての形態における恋愛で「どうやらたしからしい」現象を帰納的に抽出し、音楽として具象しようと努力する。そして聴くほうは、キーワード的にちりばめられた漠然としたことば群で脳内を検索し、自身の心体験を思い起こし、“再体験”して感動する…。つまり、どれだけその音楽がヒットし、多くの人々が涙を流しても、そこで起こっているのは個々の「記憶の再体験=共感」でしかないのです。音楽というツールを介しながら、じつはここではすべてのこころがそれぞれに閉じているのですよ。
当然予測できる反論はふたつ。まずは、それでもなんでも、げんに涙を流し感動しているのだからいいじゃないかと。このことについては、じつは僕もどちらかというと肯定的なんですよね。というのは、僕にしたところで共感ソングは感動的ですし、たとえば主体がリスナーにある商品としての音楽の象徴のようなカラオケにしても、音楽とは離れたコミュニケーション・ツールとしては買っている。でもそれというのは、この「感動」が共感のもたらしたものだとわかっている人間のセリフですよね。感動の質がちがうのですよ。CDは商品ですから、リスナーは同時にミュージシャンとともに音楽を制作するジョブでもある。僕らがわかりやすい共感ソングしか求めなければ、作り手も商売ですから、それしか作らなくなる。それが消費社会というものだとはいえ、そういった、いま見えている情動を優先する向きには危機的な感じを覚えます。
もういっぽうは、じゃあどうしたらいいんだというもの。僕らは僕らじしんの記憶以外を覗くことができない。いかにオマエのいう「感動」が高尚であっても、それも結局は「記憶の再体験」なのではないかと。これについては、まずうたなし(ことばなし)の音楽とこれらのうたもの音楽がまったくちがうものであり、感動の種類も異質だということを忘れてはいけない。記憶は言葉を最小単位として成っている。だからうたものという様式は最初から共感しやすいのです。これは小説もおなじ。ケータイ小説しかり。
そして、ここでは「表現するとはどういう行為なのか」ということをよく考えなくてはいけない。僕としてはここで「“共有=記憶の追体験”への意志」という概念を呈示しておきたいわけです。それはじぶんのものではない別のある意識を体験しようとする向き。なんでもいいのだけど、たとえばキース・ジャレットのピアノにこころの底から感動し、揺さぶられ、鳥肌を立て、硬直してぴくりとも動けないあの状態になったとき、僕は明らかにキースの見ている彼の“世界”に触れている。芸術的表現とは、また人間が他者に対して希求するのは、そもそもそういうものだとおもうんですよね。もちろん僕らは原理的に、じっさいに他者の意識を体験することはできない。しかし目指すことはできる。こう書くと精神論みたいになってしまうし、事実そうなのだけど、姿勢の問題だとおもうのです。そしてそれこそが表現行為とそれを「読む」ということなのではないかと。
共感は楽だし気持ちいい。しかしそれは得られたらというはなしであり、いわば正の共感だ。負の共感は自閉を誘う。たまたま似たものがいない環境で共感が得られず、ウシジマのキャラクターたちのように負の共感に陥ってしまったときひとはどうなるか?最近連続している無差別殺傷事件は、そういった共感地獄の極端な結果だと僕は考えている。