ブログのすゝめ | すっぴんマスター

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(※注:ゲーム攻略サイトではありません)書店員。読んだ小説などについて書いています。基本ネタバレしてますので注意。気になる点ありましたらコメントなどで指摘していただけるとうれしいです。

僕が勤務する店のオーナーは、他にも印刷だか広告だかの、零細ながらかなり忙しそうな会社も経営している社長さんなのですが、このひととこのあいだ「ものごとを多角的に観察する方法」についてはなしあったら、「新聞の定期購読はダメだ」という結論で落ち着きました。もう60近いくらいのかたなのに、やっぱ経営者ってのは柔軟なんだな…。まあ僕では、定期購読をしたことがないから想像の域を出ないわけですが、ちょっと補強されるような気分でした。



ダメな方法はわかったけど、じゃあどんな方法がいいのか。毎日数紙の新聞を熟読するのもいいかもしれないが、記者というのは畢竟どこまでも社員ですし、記事の末尾に名前が記されてはいても、出てくるのはやはり会社員というジョブの言葉であるので、仮にその方法で視野が広がることはあっても、長期にわたって読み続ければイデオロギー的なぶぶんで染まってしまう可能性があるうえ、そもそも「新聞」という媒体がただ情報が書かれてあること以上の、権威的なコノテーションを孕むとおもわれる。要は、それがどんなに些細な段階であっても、古い時計が数十年かけて遅れていくみたいに、思考法に頑ななクセがついてしまうかもしれないということ。それなら、能動的なリサーチを心掛ける意識を保つという条件付きなら、むしろ読まないほうが賢明な気すらする。(僕みたいに無知な人間は逆に読んだほうがいいんだろうけど。理論的には、ということです)


でおもうのは、可能な限り小さな、すっぴんに近い単体の、個人で活動している批評家や小説家や詩人や建築家やラッパーや画家やプロレスラーが書くものをいっぱい読むということ。しかしこれにしたって、本はそれなりの企業ポリシーがある出版社から出版されるものであるし、また「本」というメディアについても、まあ新聞とは比較にならないが、まだどこか偉そうな感じをひとによっては受けるかもしれないから、権威を信仰して、場合によっては思考を停止したまま特定の見識に依りかかることになってしまうかもしれない。


右翼も左翼も、ファシストもアナーキストも無神論者もマルクス主義者も、サラリーマンもニートもB-BOYも小説家も…、もしこういう無限の視点のありかたを自然なかたちで得ようとしたら…。ブログってのは最適なんじゃないかと、つまりはここにはなしを持ってきたかったわけです。


でもこれは半分本気でおもいますね。
じゃあどんなものを読めばいいのかというと、じぶんで一個いっこしらみつぶしに探していくか、あとは『ウェブ進化論』に書かれてあったようにテクノロジーによる解決を待つしかないので(…ほら、染まってるでしょ)、ここではもういくつかの愛読サイトが決まっているものと仮定します。こういうとき、本来はブログ・サービス内のランキングや、検索順位が役に立つはず。


そしてブログのなにがいいかって、それはある特定の超人気サイトや管理人のカリスマ性を除けば、基本パンピーがやってるということでしょう。いま愛読していると仮定したサイトは玉石混淆でいう玉であるので、ここでは質についてもまた問わないことになっているはずです。


こうしたとき…たとえばコンビニの深夜営業について考えるとき、サラリーマンの、フリーターの、医者の、大学教授の、小説家志望の、またそれぞれにおけるある程度以上の教養を備えた賛否の生声を、「パンピー」という媒体を通して、「特にどれを信頼するということもなく」読めるというのは、ちょっとふつうでは得難いものだとおもうのですよ。たとえば僕が大学の友人たちとこのことを議論したとしても、しかし僕らはまずぜんいん理系であるし、僕以外はまったくカタギの真面目のひとたちだし、個人の意見の差は当然あるとしても、やはりどこかに思考の傾向があるとおもうのです。というか、「あるかもしれない」ということがあるとおもうのです。これは文系のひととはなすと強く感じられます。もうあたまのなかで用いるアイテムもシステムもちがうのですよ。こういう情報をかんたんに手にできてしまうのがおもしろいということです。


だったら結局は本をいっぱい読めばいいことだろ、そのほうがたしかだしためになるだろともおもいますが、たとえばフロイトの論文を一冊読むことと、それを批評したブログをいくつか覗くのとでは意味の方向がちがう。基礎はやはり読書にあるのでしょう(げんに僕は言うほどブログを読んでまわってるわけではない)。ここにある多角的な観察というのは、立体的にしてソフトな、会話と議論のあいだのようなことで、こちらがあたまのなかの微調整なら、読書は観察の対象となって止揚するものなのかもしれない。

うえでは権威の有無で本よりブログを推奨しているわけだから、こちらの「読書」では権威をむしろ認めていることになるが、じつはそういう感じもする。ブログはまさに微調整という感じがふさわしいのかもしれないですね。