第115話/501年目
主人公がかっこよくぶっ飛ばされて、食われるか運ばれるかのハザマをさまよっているおなじころ…、ピクル戦にそなえて稽古にはげむ愚地克巳のもとを、すでにピクル戦を終えている義足の烈海王がおとずれていた。いや、同じ頃ではないのか…。対烈とピクル外出のあいだにどのくらいあったのかはよくわからないけど、外出から刃牙敗北までは一晩のうちに起こったことだろう。その直後に、義足をはめることができるくらい烈の傷が癒えてるとは考えにくい。いかに人体がスゴクっても。いやわかんないけど。傷口が開いたままでも装着できるとか?
だけどそうしたら、ピクルを預かっているはずの徳川さんから連絡いってないか、あるいは徳川さんのとこにもすでにいないことになってしまうが…。てことはやっぱわりとすぐなのか。おもえばピクル外出時も、麻酔からさめるのがはやいみたいなコメントを博士がしていた記憶がある。とすればあのファイトから一日か二日程度ということになる?じゃあ、烈の足の傷口はまだぐじゅぐじゅ…?
烈は訊ねる。君達神心会門下でじぶんの仇討ちをしようとしていると聞いたのだがほんとうかと。対し克巳はじぶんが言い出したことだという。
「不可思議ッ
わたしに歯が立たぬ相手に―――
わたしに指導される立場の君等が
仇討ちとは笑止なッッ」
烈と克巳の初対面を思い出させるようなピリッとした空気だ。
しかし、おっしゃる通り出すぎた行為だと応える克巳の態度は驚くほど謙虚である。それでもたたかいたいのだ、烈というつわものが通じなかったという事実を知っているからこそ、じぶんの空手をぶつけてみたいのだと。
烈のほうも克巳の真意を見抜いていた。仇討ちなどはただの口実、便宜的な煽り文句であり、強い相手とヤリたいだけなのだ。
「勝てるかな
君の空手でッッ」
烈は挑戦的に言い放つ。じぶんが勝てなかった野獣に、じぶんより格下、少なくともいちど勝ったことのあるおとこが挑もうとしているのだ。親心も手伝い、まあ、そんな気分だろうな。
しかしここでも克巳は謙虚だ。それはわからないが、勝算のあるなしではないと決めてあるのだと。克巳の表情は非常に穏やかである。言葉を先に設けて行動を規定しているわけでも、なにか信念的なことで本音を曲げてるのでも、ましてや烈がこわいからとか敗者という立場を慮ってとかでもなさそう。本気で、心底そう考えているようだ。ちょうど『ウシジマ』のサラリーマンくんにおける、戸越の変化みたいな感じか。
烈も克巳の変化、あるいは成長を感じとる。
烈じしん、見た目は大きく変わってしまったわけだが、伝えられることはたくさんある。
「4000年の蓄積を誇る中国武術の4001年目―――
君が引き継いでみないか」
ほとんどナショナリストといってもいいような烈の、驚くべき発言だ。
空手の発祥、原点については諸説あるように記憶していますが、とにかく烈は、中国から沖縄に渡り、独自の進化を遂げた空手というこの武術は中国拳法に比べればまだ若いと主張する。沖縄から数えてもせいぜい500年。やっと501年目を迎えようというなか、克巳だけが4001年目に先んじると。
しかし克巳はこれを断る。気持ちだけでいいと、空手家を象徴する巨大な拳を握りながらいう。
「若いなら若いまま
未熟なら未熟なまま
501年目をぶつけたい
空手に殉じたいのです
空手じゃなければいけないのです」
…ううむ、変わった。なんかカッコイイぞ克巳。館長の器云々問題を通過して素直になれたってところでしょうか。当初、ピクルとのたたかいはみずからの館長力をあげるための方法にすぎなかった。そしてこのばあいでは、勝ち負けではなく挑戦することにすでに効力があった。げんに神心会は「仇討ち」を共有することで一体となった。しかし物語はそれを許さない。主人公と花山にいいとこをもっていかせることで、見事なほど克巳をぶざまに、すっぱだかにしてしまった。しかしそのおかげで、克巳は一個の武術家、いや空手家に戻ることとなった。ここからはまったく僕のおおざっぱな憶測ですが、空手団体のトップにふさわしい政治力、またカリスマというのは通常の意味とやや異なるのかもしれない。なぜならこの団体は、人間の集合でありながら、そのぜんたいでなにかをつくりだしたり動かしたりというものではないから。空手は、武術である。ひとりの人間がたたかいに生き残る技術である。したがってこの集団も、体系立った訓練を同様に行い、また思想的にも統一感をそなえながら、じつはどこまでも個を追究する内向的な場所なのだ。だとしたらこのトップにふさわしいのは、大衆を、集団を動かすちからよりはむしろ内的な、とことんまで個を追究しきるありかたなのかもしれない。館長としての器、などというのは幻であり、個それぞれの成長指標となるようなある個が、結果として館長にふさわしいと、そういうことになるんじゃないかな。
だから勝ち負けではないというのも、同じ言葉でありながらふくまれるものはまったくちがう。それまでは姿勢に意味のあったものが、ここではシンプルな衝動の表現になっているのだ。
烈もため息まじりの微笑で克巳のことばを認める。しかし烈は、「じゃあ補佐ならいいわけね?」的な感じでアプローチを続ける。どーーーしても関わりたいんだね。克巳も困った。こころのなかでは、名前はどうでも、アンタの関わりじたいが問題なんスけど、みたいに困ってる。しかし是非にと畳み掛ける烈に、これに関わりたい烈の気持ちを逆に察したか、まいいかと克巳はこれを受ける。
(4001年目の中国武術との合流
そう
これが空手の501年目
革命的な足跡が―――
今 刻まれようとしている)
中国武術もそうだし、ピクルと唯一まともにたたかった烈だ、まだあちこちケガしてるようだが、ふたりはピクル討伐にむけて組み手をはじめるのだった。
たほう、館長室かどこか、その手のえらそうな事務机に足をのせ、腕を組む独歩は、「化ける」というじしんの予言通り変化した克巳をして、「変わっちまったなあのヤロウ」と、息子の成長を前にした哀愁漂う父親の複雑な心境にあるのだった。オヤジ越えは息子の使命だとはいえ、さびしいよね。
つづく。
克巳の化けかたがなにやら正統というか、誠実すぎてちょっと不安だ。絵の感じも妙に男前だった。刃牙なんかよりずっと主人公にふさわしいようにすら見えた。それだけに結果がこわい。
とはいえ、克巳の動機が非常にピュアなので、烈のような切羽詰まった悲壮感のようなものはあまりない。ピクルとたたかっても克巳は「神心会を、空手を、父親を背負う」みたいには考えないような気がする。というか、思い出すこともなさそう。いまの克巳の心理に誰がいちばん近いかというと、ピクルなんじゃないのか。
…克巳なんかで大丈夫か、盛り上がるのか、みたいな感じが正直言うとあったんですが、なんかどんどん克巳好きになっていってますわ。父親の独歩に似てきてるからかな…