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これはひじょーに大切なことだと、最近つくづくおもいます。
田中小実昌の『バンプダンプ』にはこんなふうに書かれている。
「『わからない』ほうの大家というか、名人みたいに言われたのが、ソクラテスらしい。彼はなんにでもわからないとこたえ、わかってるつもりの人たちをギャフンとさせた、とつたえられている。しかし、世の中には、とくにいくらかいい学校にいったような連中は、わかってなくてはすまされないようなのがおおいけど、この連中は、けっしてギャフンとはならない。ソクラテスみたいな相手を、頭がおかしいキチガイだ、とけいべつするだけだ。
(略)これは言葉のちがいがあるのかもしれない。そこいらのわかってるつもりの人たちの言葉とソクラテスの言いかた(考えかた)はちがうってことだ」
(略)これは言葉のちがいがあるのかもしれない。そこいらのわかってるつもりの人たちの言葉とソクラテスの言いかた(考えかた)はちがうってことだ」
例の、聞くは一時の云々とかいうこととも、またすこしちがう。わからないとくちにすることのなにが恥ずかしいのかということを考えないといけない。
ソクラテスのばあいはおそらく、たしかなものなんてないとか、わかるってどういうことか、とか、そういう深遠な意味が含まれているにちがいないけど、僕もわからんとか知らないとか、ほとんど口癖みたいに会話中に使ってる。おかげで友人のあいだでは僕は圧倒的にモノを知らない人間として定着している。で、そのわからない内容のことをあいてから訊くのだけど、ほとんどのばあいちゃんと覚えられることがない。次に会うときにはもうすっかり忘れてしまっているのです。
それでよくおもうのが、わからないとくちにすることで僕らはわからないことの枠組みを準備し、逆にわかることの枠をも規定するのじゃないかということです。僕のばあいは脳みその記憶能力に問題があるので、「わかる」と「わからない」のあいだがものすごいひろく、この「わかるやらわからないやら」領域に分類される記憶が、たぶんふつうに記憶できるひとの想像を絶するほどに多い。そしてその内容をくちにせざるを得ないばあい、べつに意識しているわけではないのだけど、僕はほぼ確実に「わかんねえ」と応えている。
「わからない、知らない」と応えるのが恥ずかしいという感情作用は、もちろん「相手が知ってるのにおれは知らない」という気持ちの向きから生まれてくるんだろう。しかし僕のたよりない直感では、多くのひとがこの微妙な領域に分類される記憶もぜんぶ「わかる」こととしてしまっているからなんじゃないかとおもう。
たとえば…、たとえば「夏目漱石」という小説家。僕らはどの段階からこの小説家を「わかる」、「知ってる」と言えるのだろう?近代日本文学最初期を代表する小説家で、文学界のスーパースターである。旧千円札のヒゲのおっさんである。『吾輩は猫である』や『それから』を書いたひとである。胃を病んで修善寺と東京を行ったり来たりしていた人物である。芥川龍之介の師匠である…。
僕はこんな情報じゃ、とてもじゃないけど「夏目漱石」をわかる、なんてくちにできない。こんなことをいくら並べたてようと、はっきりいってそれはなんにもわかってないも同じである。げんに僕は、いまでもたぶん漱石を「わからない」と応えるとおもう。「知ってる」けど。
こう考えれば、「わかる」ってどういうことか、じぶんはなにを「わかる」のかって、当然考えるとおもうんですよね。
いや、べつにくちにしたっていいんですがね、僕が言ってるのはそういう向きの、「意識」のありかたってこと。しかしもしここで会話をする相手と記憶濃度の段階分けが大きくちがっていたりして、そのうえ「頭がおかしい」みたいにおもわれたりしたら…。もうこれ、なんにも会話してないのと同じですよね。それでもし「わからない」とくちにすることが恥ずかしく、また恐怖になってしまったりしたら、つまり本来は「わかるやらわからないやら」に分類すべき気体みたいな記憶も、窓に浮いた結露をむりやりかきあつめるように「わかる」ことにしてしまったら…。そのさきに成長はあるのでしょうか?
わからないことをおそれるな!ていうか、そうくちにすることをためらうな!以上です。