『ことばのつえ、ことばのつえ』藤井貞和 | すっぴんマスター

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■『ことばのつえ、ことばのつえ』藤井貞和著 思潮社
ことばのつえ、ことばのつえ


「現世に『うた』をむかえる、あまやかでかぎりなくやさしい呼びかけ。こんなに深く、こんなに弱い日本語の詩が、世界の《速度》を鮮やかに描出する。日本の、いや『世界の詩はどこにありますか』?藤井貞和の最新詩集!」帯より



「1997年ごろより、考えてきたこと、詩の力はどこで保たれるか、その本性は『ことば』、あるいは『声』、または『うた』のひびきにどう向きあうか、詩そのものが仮にうたであってもよく、共有できる『ことば』のひびきを尋ねて、20篇に手を入れてみた。 糸を伝わってやってくる音は、空間的なそれらもあれば、過去からの声もあり、また三絃(三味線)の『糸』でもある。 命名(一歌人の名や、略語、新語…)が本書のところどころに見られる、それらはすべて『ことば』の出現というつもりで、注も要らないほどのものである。 わずかにつけてみた注に過ぎない。 2002年1月」著者によるあとがき全文。



我ながら素直だとおもう。高橋源一郎が『文学王』に書いていた詩人。それ以前にも名前は知っていましたが、はじめて読みました。

詩集に関してはいつものことながらなにを書けばいいのかわからないから、この記事もたんなる備忘録的な役割を出ないし(論評を期待されてこられたかた、申し訳ないです。そんなスキルはありません)、今後もわからなそうなのですが、とにかく、触れたことのない種類のことばに満ちていて、なにか、これまでの人生でまったく使うこともなく存在すら意識しなかったからだのどこかの不随意的な筋肉を、ある刺激とともにはじめて動かせてみたような感覚を覚えました。とにかく…。いや、書かないほうがいいかな。

正直言って、あまりにことばがピュアすぎるためか(それはもう、ちょっと信じられないくらいの段階にある)、うーむ、となってしまう場所も多かったのだけど、今回おもったのは、現代詩を読むときはこちらの状態がとても大事だということ(似たようなことを図式化して高橋源一郎も書いていました)。つまり、読めるときと読めないときがあるんですよね。たとえば…、分析的に考察したのち、ウシジマの感想や書評を更新したときとか、手慣れたものとはいえ常にある程度の緊張感のもとにはある勤務中の暇な時間、それからメッセージ性の強い音楽を聴いたあと、こういうときは、まず読めない。というか、わからない。たぶん、ロジックが「露骨に」神経を支配しているから。文字はあたまに入るのだろうし、言葉の意味もわかるんだろうけど、なにが書かれてあるのかはわからない。
逆では、最近僕がおもうのは、やっぱり寝起きがいちばんいい。嘘みたいなはなしだし、意識がニュートラルだからとか解釈を加えるとさらに嘘くさくなってしまうのだけど、ほんとうです。あと意外と飲んだあととか(これはダメなときもある。たぶん体力の問題で)。


まあ、そんな感じです。