『文学王』高橋源一郎 | すっぴんマスター

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(※注:ゲーム攻略サイトではありません)書店員。読んだ小説などについて書いています。基本ネタバレしてますので注意。気になる点ありましたらコメントなどで指摘していただけるとうれしいです。

■『文学王』高橋源一郎著 ブロンズ新社

文学王


「これはひとつの文学的事件だ!
夏目漱石からミラン・クンデラまで語り尽くして縦横無尽、前人未踏、抱腹絶倒の最新文芸評論集」
帯より



それにしてもすごいタイトルだな。

1990年前後、「朝日ジャーナル」から「現代詩手帖」に至るまで、さまざまな媒体に高橋源一郎が書いてきた批評文なんかをまとめたもの。おもしろおかしく書かれた短い紹介文みたいなものやハードな評論、エッセイに近いようなもの(マンガにも言及しています)まで幅広く収められていて、非常に読みごたえがあり、おもしろかった。高橋源一郎の小説はあんまりだけど(嫌い、あるいはよくわからない)、批評は好き、という意見をよく見かけるけど、うん、おもしろい。僕ははっきり言って読んでないもの、それどころか名前すら知らない作家も多かったのだけど(特に海外)、まったく問題なし。やたら誤植が多かったけど。


しかし「小説より批評のほうがおもしろい」というのはどういう意味なんだろう。91年から93年にかけて「日経アドレ」に連載された、それぞれに短く、ほとんどふざけてるようにも見える「ぼくの好きな日本の作家たち」なんかは、ロラン・バルトを持ち出すまでもなく、僕はむしろこれじたいを「小説的な」ものと読んだほうが正しい気がした。現在、高橋源一郎は「週刊現代」でもコラムを担当していて(タイトルは「おじさんは白馬に乗って」だったかな。地味に毎週読んでます)、これは文芸批評ではないのだけど、ここで高橋源一郎は「私」や「ぼく」ではなく「タカハシさん」という“人称代名詞”を採用して文章を書いています。これは『ゴヂラ』その他の小説において、小説内に登場する筆者本人としてつかわれていたなまえですが、この方法は例のフィクションとノンフィクションの境界ということ、物語とそれを書いたにんげんの「ほんとう」が、無関係とまではいかなくてもほとんど幻みたいなもの、ある「物体」と、その物体の本質とは関わりのない、記号としての「名前」のようなことをおもわせます。もちろん、そんなことがわかったからといってなんなんだというのはあるし、もし表現ということを考えるなら、僕らはその一致をこそ目指すべきなのかもしれない。原理的に可能かとかそんなはなしではなくて。ちょうどこの本の「昔、金子光晴という詩人がいた」の項にはこう書かれていた。



「…わたしはその人の書いた小説を読み、自伝を読んだ。感想はいつも同じだった。それらはどれも、そして、いつもその人にそっくりだった。そのことに人々はなぜ驚き、衝撃を受けないのか、わたしにはさっぱりわからなかった。この国、この日本で、ものを書いている人たち。その人たちの書いているものは、ほとんど、その人には似ていないからだ。その人に似ていないということはだれにも似ていないということだ。だれにも似ていないということは、人間に似ていないということだ。わたしは本当に不思議に思うのだよ。その人の書いているものを読むと、これは確かに、生きている人間が書いたということがあんなにはっきりわかるのに、どうしてほかの、ものを書く人はそうではないのか。その人の書いたものを読んだ人は、いままでもずっと、そういう疑問を心の内抱いていたのだとわたしは思う。ああ、なぜ、その人だけが別なのだ。その人だけが別であって、どうして、わたしがそれではないのか。恥ずかしくもまた、わたしもその疑問を抱く一人なのである。わたしもまた日本語でものを書く一人である。わたしの書くものは、果たしてわたし自身に似ているだろうか」



ある小説について、それを書いた筆者がいる、あるいはいるはずだということを、僕らはその小説の存在する以前から了解していて、それを読むとき、四六時中あたまに浮かべているわけではないにしても、好き勝手に心臓が鼓動するみたいに、僕らはそれを無意識下に明らかな前提としているはずだが、そのこととその「小説」から「小説家」が身体レベルで感じられることは意味がまったくちがう。高橋源一郎はいちどこのこと(小説と小説家が別個にあるということ)を認めてしまったうえで、この乖離それじたいをフィクションのなかにおりまぜ、具体的には自分自身=「高橋源一郎」を「タカハシさん」に置き換えてフィクションにしてしまうことで、僕らのこの葛藤を小説のなかに封入してしまおうとしているのかもしれない。としたら、僕らはいったいなにを読んでいることになるのだろう。「タカハシさん」と「タカハシさんの書いたもの」の一致は、「高橋源一郎」と「高橋源一郎の書いたもの」の一致を示唆するのか。

そう考えると、最近の(ちょっと前の?)高橋源一郎がテクスト論的な立ち位置とはほとんど真逆にあるような明治時代の自然主義小説に傾倒している(というか、それを研究している)というのはなかなか興味深い感じがする。両者、つまり自然主義と、直截的な写像の不可能を認めてしまうことで底無し沼的フィクション地獄をいちど「フィクション」として括弧でくくる(と、僕がかってにおもっている)方法の目指すさきはまったく同じということになるのだから。


いろいろ読みたい本も発見できました。まずは金子光晴と藤井貞和、それに海外の翻訳されているものを探してみようかなー。