■『学問のすゝめ』福沢諭吉著 岩波文庫
学問のすすめ (岩波文庫)
「『天は人の上に人を造らず人の下に人を造らずと言えり』。著名なこの一文で始まる本書は、近代日本最大の啓蒙家である福沢諭吉(1835~1901)が、生来平等な人間に差異をもたらす学問の意義を、平易な文章で説いた17の小篇からなる。西洋実学の批判的摂取をすすめ、明治の人心を啓発したその言は、今日も清新である」表紙より
どんなに学のない人間でもぜったいその顔を知っていて、日本を代表する啓蒙家、偉人ながら、ときには親しげにファーストネーム呼び捨てで呼ばれることすらある福沢諭吉大先生、なのであった…。
二葉亭四迷『浮雲』も出ていない、つまり言文一致も果たされていない明治最初期に書かれたものなのでもちろん文語調なのですが、驚くほど平易な文体で書かれていて、いかにも古風な二重否定の多用など、えーと、これは…?と混乱してしまうようなところもそれはなきにしもあらずなのだけど、馴れてしまえばほとんど気にならず、とにかくおもしろかった!この読み易さと引き込むようなおもしろさは、啓蒙という本書の目的と、また筆者じしん(このひとくらい偉人だとなんて呼べばいいかよくわからん…)の内側で非常に明確なリアリティをもって、端的に迷いなく考えが確立していることからきているのでしょう。なんにせよ、坂口安吾に匹敵するものすごい説得力。豊かで的確な例示もとてもわかりやすい。冒頭の「合本学問之勧序」によれば、当時人口三千万人程度だった日本でこの本は七十万冊も売れたということだけど、このわかりやすさなら頷ける。
そして通してあるさまざまな問題意識がほとんどのばあい二十一世紀の現在にもあてはまるということに驚きだし、またその事実が恐ろしい。読みながら百年以上前に書かれたものだということをときどき忘れてしまうくらい。だけどそれってどうなんだ?第十三編に孔子を批判するところがあって、そのあとにはこう書かれている。
「そもそも孔子の時代は、明治を去ること二千有余年、野蛮草眛の世の中なれば、教えの趣意もその時代の風俗人情に従い、天下の人心を維持せんがためには、知って故(こと)さらに束縛するの権道なかるべからず。もし孔子をして真の聖人ならしめ、万世の後を洞察するの明識あらしめなば、当時の権道をもって必ず心に慊(こころよ)しとしたることはなかるべし。故に後世の孔子を学ぶ者は、時代の考えを勘定の内に入れて取捨せざるべからず」
ところが僕はこれを読みながら、「時代」を考える必要をまったく感じないのです。文体はともかくとしても、このまんま、優れた文化論かビジネス書的に書店に並んでいても違和感ないんじゃないかとすらおもうのです。おおげさかな。でもどうなんですかそれって。これが時代遅れに見えるくらいが普通なんじゃないですか、百五十年もたったら。
あまりに有名な冒頭の文句、「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らずと言えり」のここだけを読むとなにかキリスト教的なモラルのようですが、そういうことではなく、福沢諭吉の問題意識は、そもそもは平等にある人間が、学ぶということのあるなしで賢人と愚人に分かれてしまうというところにあります。同時に福沢は学問のための学問というようなありかたを痛烈に批判し、じっさいの生に直結した「実学」を推奨する。いわく、「されば今かかる実なき学問は先ず次にし、専ら勤むべきは人間普通日用に近き実学なり」。
農業には農業の、商業には商業の学問がある。自己完結的に、進歩も退歩もない生活のための生活では独立とはいえず、むしろそれは最低条件であり、そのように実利的な活用を学んで才徳を磨き、真に精神が独立したのちにこそ、一個の人間として国をおもうことができ、政府との関係を本来の対等なものへと回復するのだし、またそれこそが国をも“独立”させる「報国の大義」なのだ(僕が読んだところでは学びによる「成長への意志」の最終的な動機は、哲学的なものではなく、どうもここにあるみたいですが、見落としてるかも)。
それから、物事を疑ってかかることや他者との交流の重要性など、バランスをとろうとするような考えは宮本武蔵『五輪の書』を思い起こさせておもしろい。
まったくかんけいないんですが、いまふと浮かんできたからついでに書いておきます。この『五輪書』というのも本書同様、現代人が読んで学んでもなんにも古いところがない、非常に実践的な書物だとおもいます。ちなみに僕は高校生のころもと傭兵の柘植久慶さんが読み解いた中公文庫の『実戦 五輪書』を読みましたが、バランス感覚のところには特に感動したことを覚えています。武蔵のいうのは、真に兵法を修得しようとするにはそれ以外の道についてもよく知っていなければならないということなのですが、この柔軟と科学的慎重さ…すべてを疑ってみる=すべてをいちど認めてしまう、という検証の姿勢には近いものがあるとおもう。というか、この姿勢抜きではどのような道でも成長はないとおもう。
実戦 五輪書