サラリーマンくん26/第117話
しおりとのいっときの、かりそめの、だが確実な癒しの時間ののち、深夜に帰宅した小堀を待っていたのは、板橋が盗み出して使いこんだカードの請求書だった!その額、966720円。目ん玉飛び出して、ころころ転がるの拾って、再びはめこんでもまだ驚き足りないくらいだろう。
当然小堀にはわけがわからない。そもそもカードは妻が保管しているはずなのだから。それをいえば妻の結子も同じだ。夫が持ち出して使用したものとすっかり思い込んでいる。こんな時間までなにをしていたのかと訊ねられ、残業だと嘘をつく小堀だが、会社に電話したけどいなかったと結子は言う。携帯ではなく会社にかけているところに妻の深い疑念と不信が感じられる。
次々と浴びせかけられる、ほとんどこたえを待たない、静かな、だが迷いのない断定的な質問に、「知らねーよ!」と、小堀はつい大声をあげてしまう。激昂して呼吸をあらげる夫とは対照的に妻の態度は真夜中のステンレス製キッチンのように冷ややかだ。
小堀の大声に目を覚ましてしまったらしい由花ちゃんの泣き声を聞いて背中を向けたまま黙ってその場を立ち去ろうとする妻の、その肩をつかんで小堀はとめようとするが、振り返った結子の顔貌は、これ以上表情を抜き取れないというほどがらんどうな、電灯のひもでも眺めるかのようにひらべったく、同時に鋭いもので、にんげんを見ているとはとてもおもえない妻のこの表情に小堀もおもわず手を離してしまう。
翌日、カード会社に盗難・悪用を通報するが、このことが気になってしまってなかなか仕事に集中できない。こういう小堀の態度を志村課長が見逃すはずはない。いつものように、気持ち悪いくらいの至近距離で小堀の背後からネチネチと因縁をつけまくる。
「小堀く~ん
キミさ―――
ちょっとはヤル気見せてよ。
朝から暗い顔してさぁ―――
そんな頼りない態度だから広尾先生の件は戸越くんに任せたんだよ~!?
いい加減にしてくれよォ!!」
・・・・。
…うるせぇっ!逝けっ!!
ある作品を分析したり批評したりするとき(つまり“読む”とき)に感情的になりすぎてしまうのは、安易な“共感”を助長しかねないのであまりよくない。じっさいには感情的な発見からはじまることも多いのだけど、できれば多層的に、さまざまな読みかたできるようにありたいとはいつもおもっている。だけど小堀はだめだ…。これが真鍋昌平の、入念な人物設計がもたらす漫画力といったところか。
以前、約束をうっかり寝過ごすという大ヘマをやらかした明鏡大学の神田先生のもとに小堀はやってきていた。その後、特に契約がなくなったりとかはないみたい。神田先生はさすがに医師らしく小堀の不調に一目で気付き、顎の付け根が腫れていることを指摘する。知らなかったけど(あるいは僕の見落としかもしれませんが)小堀はずっと顎が痛かったみたい。ストレスから睡眠中に歯ぎしりでもしているのだろうか。
神田先生はついでとばかりに、前から気になっていたとして、小堀の顔色の悪さも指摘し、精神科の受診を勧める。小堀は当惑気味だが、結局は別の日に神田先生から紹介してもらった「おおはしクリニック」に行くことにする。
「小堀さん、ちょっといいですか。
私が言葉を投げかけるので…連想した言葉を思いついたまま言ってください。いきますよ」
「子供の頃、私は…」「よくファミコンしてた」
「家は…」「居心地が悪い」
「人々」「遠くに感じる」
「会社」「給料をもらうところ」
「争い」「避けて通りたい」
「妻」「冷たい」
「世の中」「悲惨でキビシイ」
「私はときどき」「引きこもりたい」
「もう一度やり直せるなら」「同じコトの繰り返しでムダになる」
「死…」「救いだと思う」
いろいろのことを思い出してしまったのかもしれない、小堀はうつむいて「もう辛いです」と半乾きの雑巾をしぼるように感情を吐露する。しおりや板橋を除いたら、小堀が他人の前でこんなふうになるシーンはほとんどはじめてなんじゃないか。そしてしおりは半分仕事だし、板橋はもうアッチの人間だ。いままでどれだけ溜めこんでいたのか。この連想ゲームは、たんに医師が患者を分析する手掛かりというだけではなく、あるいは患者じしんにはっきりと周囲と自己の位置関係、不安要素を自覚させるテクニックなのかもしれない。精神科医ってエライなぁ…。
ウシジマではあまり見られない、ほんとに優しそうな大橋先生は小堀に「まずは寝てください」という。からだはともかく、こころの疲労は気付きづらい。睡眠薬や安定剤を処方するので、状況そのものを変えて、とにかく休みましょう、ということだ。こころの問題であるし、小堀じしんがよくわかっていないことでもあるので、どの段階からなにをもって「治った」ことになるのかはわからない。それでも、会社を休んででも、とにかくよく寝ましょう。
もちろん、診断書をもらったところで、小堀に会社を休むことなんてできるわけがない。クビになればじぶんだけではない、家族が困る。とりあえず薬だけもらって小堀は帰宅するが、妻や子供たちの姿はない。なかば投げやりに、まーた実家帰ったか、と小堀は考えるが、テーブルのうえになにかを発見する。
大橋先生に処方してもらった安定剤をがぶ飲み、もはや口癖となってしまった「もうどうでもいい」という言葉を口にする小堀の手元には、結子の名前が記された離婚届が置かれている。
誰もいない我が家のまんなか、小堀は力無く泣き崩れる…
ここまでぼっこぼこのフルボッコだと、これから丑嶋が出てきたところでたいして怖くないような気すらしてくる。これまでにもひどい目にあったキャラクターはたくさんいたが、彼らと小堀は落ちかたの質がちがう。
としたらやっぱりハッピーエンドだろうか?というか、個人的にはぜひそうあってほしい。もちろんウシジマの場合は、フリーターくん編を筆頭に『果たしてこれは何エンドなのか?』という終わりかたが多いので、どのような結末であろうとひとことでは説明しきれないという部分はあるのですが、とにかく僕としては結子との関係が回復してほしい。板橋はアレされてもいいから。最悪、小堀クビになったっていいから。日常の実際的な疲弊から共感に終始してしまうことで失われた、出会った当初はあったにちがいない認識共有の感覚(ひとはそれを愛と呼ぶ笑)を思い出してほしい。そうすれば、おれは必要ない、なんて感覚は吹き飛んでしまうだろう。
睡眠薬いっき飲みとかしなきゃいいけど…。痛み指数も迷惑指数もかなり好成績だろうし…。