『バイオハザードⅢ』 | すっぴんマスター

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(※注:ゲーム攻略サイトではありません)書店員。読んだ小説などについて書いています。基本ネタバレしてますので注意。気になる点ありましたらコメントなどで指摘していただけるとうれしいです。

■『バイオハザードⅢ』
監督:ラッセル・マルケイ
主演:ミラ・ジョヴォヴィッチ
バイオハザードIII デラックス・コレクターズ・エディション(2枚組)


特に好きということもないのになんかぜんぶ見ちゃってるな、このシリーズ…。

同じゾンビものでも『ドーン・オブ・ザ・デッド』なんかに比べるとアクションアクションしすぎているし、主人公が超人であることや政府側の黒幕っぽいひとたちの存在、軍隊や警察などがほぼ解体しながらアビリティを持った個人としてはじゅうぶん活躍すること(もちろん大半は死んでしまうが)、さらにそもそもT-ウイルスというものが科学的に生み出されたものである以上、どこか解決も科学で可能な気がしてしまうことなど含め、ゾンビ映画最大の魅力、「崩壊した社会とそのなかに生きるジョブを失ったひとびと」ということがそんなに逼迫してはこないんですよね。言えば、中途半端なんですよね。ぜんぶ。だからまあ、ゾンビを素材にしたアクション映画というところがほんとなのかもしれない。

・『ドーン・オブ・ザ・デッド』

http://ameblo.jp/tsucchini/entry-10050062714.html


舞台は「Ⅱ」から数年後。アリスたちが脱出した直後にラクーン・シティは爆撃により浄化されたはずだったが、T-ウイルスの蔓延を完全に防ぐことはできず、数カ月もの時間をかけて世界中に広まっていた。ウイルスは動物のみならず木々や湖も汚染し、地球上の陸という陸は砂ばかりの不毛の大地と化している。
感染を逃れたものたちは“旅”をすることで生存している。脱出後、じぶんが監視されていることを感じたアリスはカルロスたちと別行動をとっていた。またカルロスはクレアというタフな女指導者や有能なクルーとともに無力になにかを信じるしかないひとびとをひきつれて車団を築き、アリス同様街から街へ旅していたのだった。


あれ…?ジルは…?死んだんだろうか。ものすごいきれいなひとだったんだけどな。




正直言って…うんざりきてしまうシーン多いです。クレアのベタなキャラクターとか、冒頭のタバコについてのやりとり、物語上の意味(効果)がいまいちはっきりしないL.Jの最期、アイザックス博士のじっけんとやら、連合政府の不透明すぎる感じ…。絵は悪くないんだけど…脚本かなぁ。あと短すぎるってのもあるとおもう。

でも、なんか見ちゃうな。


おもしろいのは、クレア車団が互助的な組織ではないということ。名前や台詞のあるキャラ(だいたいドライバーか助手席にいる)以外は完全に“大衆”ですよね。クレアやカルロスみたいなちからもあたまもある人間からしたら足手まとい以外のなにものでもない。げんに彼らをかばって死んでしまう有能なクルーもいる。しかるになぜ彼らはリーダーになりたがるか?それはもちろん、この車団というものがひとつの社会を形作っているからです。アラスカが安全“かもしれない”という情報をアリスが持ってきたとき、クレアはそのようにふたしかな希望的観測で動くことはできないと反対するが、カルロスは絶望しきった“大衆”を指し、彼らに必要なのはまさにその“希望”ではないかと言う。情報の信憑性云々ではなく、とにかくなにかを信じることではないかと言うのだ。これはもう完全に、すべての世界(いまの僕らが生きる世界も含む)における“指導者”と“大衆”のありかたそのまんまだ。ほんとうのほんとうは、信憑性こそが大切なはずだ。ガソリンや弾薬、食料だって無限に見つかるわけではないし、フロイトが指摘したように、希望(信仰)が無意味と判明したときの大衆の反応というものは予想がつかないし。仮にアラスカに向かうとしても、この情報の信憑度を理解した、指導者たちだけで行くのがいちばん安全なはずだ。しかるになぜ彼らは希望を与えるか。それはつまり、この社会において、彼らのほうでも“大衆”を必要としているからだろう。このように車団外の世界になにもないということがわかっている以上、“指導者”はまさに“指導”することでそのジョブを成り立たせ、ひいては自我を維持しているのだから。そのためには嘘でもいいから“大衆”を安心させてしまったほうが社会=車団の機能ということを考えたときは都合がよいのだ。スケープゴートとしてのユダヤ人や思考放棄の手段としての宗教ということと同じですよね。ずっと好意的ですが。クレアたちはおそらく、じぶんのような強いものは、この崩壊した世界にあって、弱きを助けるのが当然と考えているはず。つまり、みずからの生存より、弱いものを助けるという“役割=ジョブ”を優先させているわけです。それはつまり、たんに生きていくだけではなく、ある社会のなかである規定のもとに生きるありかたの成立をこそ優先させているということです。そのために…つまり車団を維持するためには、あのじてんでは結局アラスカという希望でもって大衆をだますしかなかった。彼女が最初アラスカに行くことを反対したのはこの葛藤にほかならない。


そしていわば“すっぴん”として、リディックのように、社会からの規定なしで存在し得る超人のアリスが物語なかばまでは単独で行動し、また彼女のクローンが実験として次々に生み出されているというのもおもしろい。彼女たちが解き放たれたとき世界はどうなるのか?『マトリックス』のスミスや鈴木光司『ループ』にもつながる究極の問いですよね。他者という概念のない社会とは、社会と呼べるのでしょうか?人類ゾンビ化で他者を失うとともに自我も不安定になった人間は…このような全人類同一人物という世界のさきになにを見るか?


あれ…?意外と深いのかなこの映画(笑)