なにかこうかなー | すっぴんマスター

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(※注:ゲーム攻略サイトではありません)書店員。読んだ小説などについて書いています。基本ネタバレしてますので注意。気になる点ありましたらコメントなどで指摘していただけるとうれしいです。

ブログネタ:最近何で泣いた? 参加中
今回のブログネタ、どれもあんまりだなぁ…。


Amebaには「クチコミ番付」というものがあって、これは週に十個ずつくらい新しく用意される「ブログネタ」をいわばフリとして選び、記事を書いて、後日評価メールをもらって(いまのところぜんぶ金星^^)だんだん「番付」をあげていく、というものです。それぞれのルームには「すんも」という生き物がいて、記事を書くと衣装とか家具とかいうアイテムが手に入り、ルームごとこれを成長させていくという、まあ育成ゲーム的な感じです。特に注意もないし、なに書いてもいいみたいなので、いつも自由に書かせてもらってます。



そんでなに書こうかいろいろ見て結局これにしたけど…どうだろうなーこれも。


とりあえず、どうしてかわからないけど、他人と居るときはいつもシュールリアルというか、ファンタジーとして一枚別のキャラクターをかぶってしまうようなところが僕には昔からあって…。ブログ上ではつねにガチなつもりだけど、これにしたところで「tsucchini」というファンタジーに隠れてるみたいな実感がときどきある。記事を読み返して、じぶんが書いたみたいじゃないこともある。いわゆる「リアル」にあることって、だから少なくとも僕にとってはむずかしい。たしかにある…気はするのだけどね。他者が受け取るすべてのキャラクターはファンタジー=テクストにすぎず、リアルなじぶん=真理なんてものの存在を考えることには意味がない、ということもそれはできるかもしれない。だけど他者と別れてひとりになり、うちに帰ってきたとき、このファンタジーがはがれて生身になっていく感じはたしかにある。



なにが言いたいかって、他人といるとき、僕はキャラクターとして笑ったり怒ったりすることはあっても、ほんとのほんとに笑ったり怒ったりしてるかということには疑問が残るわけです。こころの底から笑えていない、とかいうこととはまたちがう。その瞬間、僕はたしかにある事象を楽しくおもい、笑っている。しかしひとりになって振り返ってみるとなにがおもしろかったのかまったくわからず、罪悪感みたいなものにとらわれたりする。


これは僕がここでつかっている「世界から規定されるジョブ」と「すっぴん」の概念に置き換えてもいいとおもう。人数に関わらず、ある他者と一緒に会話したり飯食ったりアレしたりするとき、僕らはお互いの「ちがい」から相互に規定しあうことで、あるジョブを確立させる。これが個人レベルでのキャラクターというファンタジーということになるのかな。


それでも「泣く」っていうのは、笑ったり怒ったりというふるまいに比べてこころとからだの密着具合が強い気がする。だって笑おうとおもえばいつでも笑えるけど、泣けっていわれたってすぐにはむりだもん。そりゃ役者みたいに訓練すればできるかもしれないけど、ふつうはむり。要するに、あるジョブがもつアビリティとして、泣くっていう行為はけっこう高度なのだ。だからかたくなに自己をキャラクターで覆ってしまっているひとほど涙を見せることは少ないし、逆にこれがとっても薄くて、どこでも「すっぴん」でいられるひとほど涙もろいのかもしれないな。


だから僕は人前で泣いたことがありません。なんだかさびしいけど。ひとりで映画を観てるときとか、他者でありながら「すっぴん」になれるひとのまえでは泣くこともあるかもしれないけど(たぶん)。人生のどっかの段階で鉄壁のジョブに守られる気楽さを覚えてしまったんだろうな。すっぴんマスターには程遠い。


…と、こんな重いはなしを「クチコミ番付」は求めていないとおもうので、ちゃんとブログっぽく、感動した映画でもあげといたほうがいいかな。基本「おはなし」が好きだから、どんなダメ映画でもある程度はこころを動かされるのだけど、理不尽なくらいぐっとくる映画というとやっぱ『アイ・アム・サム』だなー。これまでのようにルーシーに絵本を読み聞かせようとするサムが、学校がルーシーに新しく宿題で出した難しい本をうまく読めず、聡明でこころやさしいルーシーが父親を思いやって「この本嫌い」とこれを投げだし、サムも大好きな「緑色の卵のなんとか」いう絵本をニコニコ手渡すシーン…。映画史上に残る屈指の名シーンだとおもう。ドキュメンタリーを意識しているにちがいない不安定なカメラ・ワークもいい。