■『カーライルの家』安岡章太郎 講談社
やっぱり合う合わないの体質みたいなことってあるよな、とおもった。たいしたはなしはしてないのだけど…このひとの文章はすいすい読めてしまう。
八十歳を越えた安岡章太郎による、言ってしまえば随筆で、前半の「危うい記憶」は小林秀雄のおはなしなのだけど、語り手=安岡章太郎と小林秀雄の境界線があいまいなところなんかは『鏡川』を思い出した。小林はこうしたああしたと書きながらはなしは奇妙なくらい滑らかに現在形に移行し、いつのまにか小林秀雄の視点から世界が語られている。もちろん「危うい記憶」という題名に直結する、意図された手法だとはおもうけど、あまりにスムーズすぎるというか、自然なので、このひとにとっての世界の認識がじっさいこのようなものなのかとかおもう。
たとえば…卑近な例をあげると、僕らは眠りながら夢をみるとき、いちいち「この認識は夢だ、マボロシだ」というふうにはおもわないわけですよね、ふつうは。夢をみているその瞬間においては、その世界こそが「私」にとってもっともリアルな世界であり、認識なのだ。いま僕らが起きながら、あれは夢だった、マボロシだった、とおもうのは、言うまでもなくいま認識しているこの世界が、この瞬間においてはもっともリアルだから。
また認識世界というのは記憶そのものだということもできる。僕らは、「いま、この瞬間」という時間をそのまま知覚することが原理的にできない。もちろんこれは、例の主観と客観は一致するかという哲学の問いに返っていくものなのだけど、ことばあそびというか、ひどく現実から離れた理屈のおはなしというわけでもなく、感覚的にこの感じはたしかにある。僕が共有・共感の概念について「記憶の追体験・再体験」と書くときのこの「記憶」というのは、広い意味でだから「世界」をさしているつもりだ。
またそれと同時に、僕らは逆にどれがほんとの「現実」なのかということを確信しきっているぶぶんもある。そうでなければいちいちこんなことを言葉にして確認しようとはしないはずだ。記憶のなかでしか世界を認識することはできないという感覚と、たしかに世界は目前の手の届くところに存在しているという感覚の同居が、そもそも僕らにどちらかの観点を主張させるはずだから。
このようなことを書くと僕はいつも吉田健一の『時間』(講談社文芸文庫)を思い出すのだけど、これが発表されたのが昭和五十一年、吉田健一六十四歳のときに書かれたもので、ムダで無意味な推測とはわかっているし僕みたいな凡愚のパンピーが語るべきはなしではないとはおもうのだけど、ある程度の生の年月を重ねて記憶が堆積していくと、あたまをつかって生を知覚するひとたちにこのような発想は自然とあらわれるものなのかとおもう。
ことばをつかって記憶をたぐるさきに、僕らはたしかな世界を、リアルにあるこの現実とはまた別に共有体験することができる…。この本がそのことを描いているのだとすれば、これは安岡章太郎の再体験による世界の知覚法の、その追体験ができるもの、ということになるのかもしれない。
表題作「カーライルの家」も同様の書きかたがされていて、イギリスの歴史家トーマス・カーライルと、ロンドン留学時代にカーライルの家に不可解な興味を抱いた夏目漱石を描いたものだが、安岡章太郎じしんはカーライルのことを八十歳をむかえたいまもよくわかっていない。「危うい記憶」同様、筆者はここでも漱石との奇妙な溶け合いのようなことを書き出す。筆者がカーライルのことをつまびらかに知る必要は、じつはないのだ。カーライルとの共有体験を果たしていたらしい漱石を、筆者はここで体験しているのだから。
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