これまでくりかえし書いてきたことの焼き直しになってしまうのですが…
決定的な影響を受けてしまうのも問題なので、とりあえずはということで、僕は基本的に書評や映画評を書く前に解説やネットのレビューなんかを読まないようにしているのですが、記事をアップしたあとに検索をしてみると、けっこううんざりきてしまうことが多いのですよね。というのは、個人のサイトなら問題ないのだけど、映画の掲示板なんかで、大義名分として「人にはそれぞれの見方・感想がある」という、反論不可能の魔法の言葉があまりに多様されているから…。
これはもちろん、自明のことではあります。じぶんのこころに生まれたものこそが唯一無二の感想だというのは、僕もおもう。現実世界にさまざまなにんげんが存在して、同じだけのさまざまな主義・主張があるのと同じように、ある作品についての感想もひとそれぞれだろう。
でもそのような前提を認めながら、僕はこういう考えかたに違和感を覚えます。というか、これを論拠にしてなにかを語ろうとすることを奇妙におもう。そもそも映画=おはなしを読むときの動機というか初期衝動って、それが楽しいものであれ苦しいものであれ、じぶんのものではないべつの世界を体験したいってことですよね。これはどんなに数多くの映画を観た評論家でもあるいは子供でもおなじはず。
ところが「おれにはおれの感想がある」としているひとは、まったくじぶんの世界=記憶をはみ出ようとはせず、むしろ拒否してしまっているように僕にはおもえます。たとえばある映画を誰かが掲示板で酷評したとします。しかしすぐに他の誰かが反論する。それはちがう、オマエはこういうところを見逃していると。すると、反論された最初の誰かはだいたいこう言う。ひとにはひとの見方があるのだ。あなたがそう感じたなら、それがあなたの感想なのだろうと。
本人が意識しているかどうかはわからないが、ここには「オマエがどうおもおうと知ったことか。おれにはこう見えたんだから」というようなコノテーションが感じられる場合が多いとおもう。それがどんなものであれ、ある評価を下す以上、彼はその作品を、言葉になる以前の純粋な“体験”として感じる観客の位置から一歩前に出た場所に立っているはずだ。しかし僕にはこれはたんなる他者の拒否、幼児のわがままにしか見えない。こういう考えかたにあるひとは、作品を通じて新しい世界を体験しようと行為に及びながら、じつはすべてじぶんの尺度でものを把握していて、場合によっては結局なにも体験していないということにすらなってしまう。
なにも僕は、すべての作品を通して裁定できる普遍的な真理がある、というようなことを言っているわけではない。そんなものがあれば、あるひとつの完成された作品が存在すれば他のものはなにもいらないということになってしまう。そうではないですよね。むしろ真理がない(なにがどうおもしろいほうに転がるかわからない)ことが楽しみなわけですよね。ただ、真理はないけど、見解というのは止揚するものなんではないかとおもう。
だから僕は、僕個人の気質も含めて、まあ普段からやってるわけではないのだけど、ネットで映画レビューや書評を読むとき、ある作品について評価しているひとの意見のほうを特に尊重したいんですよね。なぜならすばらしい世界をより多く体験したいから。じぶんのなかにある既知の世界だけなら、極論をいえば思い返すだけでいくらでも再体験できるし、言ってしまえば作品なんか必要ないんじゃないですか。(悪く批判することを否定するわけではありません。念のため)。
さらに乱暴な言い方をすると、こういうことをいうひとは結局“消費者”の姿勢を抜けきれてないんですよね。おれが金出して買った“世界”なんだから、なんでもいいから楽しませろと。そんなことないと言われるかな?もちろんそれもわからなくはない。しかしそれは子供の意見だとおもう。「じぶんの感想」ってなんだよ?とすら僕なんかはおもいます。それは映画の評価というよりは、映画の世界を体験したじぶんについての評価にすぎないじゃないか、とか。もちろん、どうあがいても原理的にここを出ることはないのですが…。
そうなると、それこそ「感じかたはひとそれぞれ」なわけですから、他人の意見が重要になってくるんですよね。これはじっさいにネットでリサーチするとか図書館で批評を読みあさるとかそういう現実的な行為のはなしの前に、姿勢の問題なんです。なにか見落としてないか?こんな考えかたは?こんな見方は?そういう科学的な慎重さ…すべてを疑ってみる=すべてを認めてみるということこそがそれぞれの見解を止揚するのにもっとも賢明な態度なんですよね。ちょっとヘーゲルっぽいかな…
まあ僕のこんな意見も、「余計なお世話だ」とか「それはオマエの見方であっておれのではない」となれば僕はひとことも反論できませんし、それ以上はする気もないんですが。そんなことわかってて言ってるってかたもたくさんおられるとおもいますし。
もうブログ歴十ヶ月、小説家目指して二年半、生まれ落ちて二十四年にもなるのに、まだこのことをうまく説明できない。僕じしんのなかではもう、決定的な、確信されきっていることなんですが…。ことばがたりない…。