『死者の奢り・飼育』大江健三郎 | すっぴんマスター

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■『死者の奢り・飼育』大江健三郎著 新潮文庫


死者の奢り・飼育


「屍体処理室の水槽に浮沈する死骸群に託した屈折ある叙情『死者の奢り』、療養所の厚い壁に閉じこめられた脊椎カリエスの少年たちの哀歌『他人の足』、黒人兵と寒村の子供たちとの無残な悲劇『飼育』、傍観者への嫌悪と侮蔑をこめた『人間の羊』など6編を収める。“閉ざされた壁のなかに生きている状態”を論理的な骨格と動的なうねりをもつ文体で描いた、芥川賞受賞当時の輝ける作品集」
裏表紙から



本作に収録されているものではもっとも長い「飼育」を読みながら、僕はなんとなく中学受験のことを思い出していました。ああ、“小説”だと。いまは知らないけど、当時受験に出題される小説ってだいたい決まっていて、そうでなくてもある程度の「スタンダード」みたいなものがあって、たとえば有名なところだと椎名誠だとか井上靖だとか笹山久三だとかねじめ正一だとか下村湖人だとか、とにかく僕らはそういうものをごりごり読んでいったわけで(はっきりいって国語の勉強に関しては読書以外した記憶がない。そしてそれはとても効果的だった)、おもしろいものつまらないもの、玉石混淆、あのときに小説を読む基礎体力みたいなことがついたのかなとかおもうけど、とにかく“小説”という現象が新鮮で、なにかそのときのことを思い出してしまったのでした。たぶん大江健三郎の、小説家としての平均点の高さがそう思わせるのでしょう。村上龍みたいに。大江フリークはたぶん僕の想像しているよりずっと多いにちがいないけど、おそれずに感想書いてみます。



「飼育」は、物語全体がダイレクトに一個のたとえだと割り切ってしまうとおもしろいかもしれない。それは無垢に閉じたミクロコスモス。少年たちにはそれを比較するという概念がないから、黒人の巨大な(この小説的にいえば)セクスを前にしても劣等感におそわれたりということもなく、ただただ笑いころげる。野坂昭如『アメリカひじき・火垂るの墓』(新潮文庫)収録の「アメリカひじき」という小説で、アメリカ人の前で技を披露することになった日本の職業セックスのベテランが、結局うまくちからを集中できずに失敗するというはなしがあったけど、「飼育」には異人に対するある種の緊張感はあっても、たとえば性的な劣等感はない。黒人兵の前で皮を剥がれた鼬の姿はセクシャルな暗喩をおもわせるものだが、少年の知覚する世界では本来あるべき血生臭い皮膚的な感触が思いのほか弱く、遊びのひとつとして扱われている。これはたんに子供が語る物語だから、というだけではなく、この子供の視点は、村全体にある(外から観察したときの)イノセンスのあらわれなのだ。しかしある事件を境に、主人公の少年は「もう子供ではな」くなる。村の(勝手知った無垢な世界の)外側に残酷でリアルで生臭い世界があることを知る。そこではたとえば女の子にセクスを触らせるみつくちの遊びはもっと深い意味をもつし、外国人の巨大なセクスは日本人の男に劣等感をもたらす。これはこの先、強烈な読後感を残す「人間の羊」にもつながっていく。「飼育」の村にも当然「女」がいるわけだけど、彼女たちはほとんど姿を見せないし、見せても存在感はひどく弱い。このイノセント・ワールドで女は「女」というコノテーションをもたないのかもしれない。


手法が生々しく、また強い自覚のもとにきちんと物語化されているために、なかなかそうは見えてこないのかもしれないが、それでありながらどこか漂う冷えた清潔感みたいなものは、たぶんこういうところからきているのだとおもう。描かれる戦争のモデルはまちがいなく第二次世界大戦だろうけど、じつはここで“戦争”は素材にすぎず(だからはっきり書かれない)、特殊を削いでおはなしの芯、原物語をのぞき見ると、これはにんげんというものがこの無垢な世界から原理的にそれぞれたったひとりで生きなければならない大人の世界にすすんでいく物語だろう。


とはいえこの素材がどこまでも恣意的なものかというともちろんそんなわけはなくて、これは環境の規定するもので、だからこれをその時代を生きた少年の見た世界を模型としたある種の記録小説と読んだところで別に責められるすじあいはあるまい。誰もが通過しなくてはならないこの“子供から大人へ”という過程が、おそらくは筆者が子供時代をすごした戦後のすさんだ環境に太字で縁取られることで、強く表出したものなのだろう。



作品集の後半、「飼育」から「戦いの今日」まではだから順番につながったはなしと読めるのだけど、前半、「死者の奢り」「他人の足」、特に「死者の奢り」はやや毛色がちがって、これもすばらしい。都市伝説的にまことしやかに囁かれる「死体入り水槽撹拌バイト」のモトネタはどうもこれみたいです。中学生のとき、知り合いが一万でやったことあるって言ってたやつがいたけど、あれはやっぱ嘘だったんだな…。いや、別に学生だったらあってもおかしくない気もするけど。新薬の実験体の仕事だってあるんだから。もちろん、ほんとの意味での実験はクリアした、最後の安全を確認するという程のものみたいですが。うちの大学のOBがそんなようなことを特別講義で語っていました。出席だけして半分以上寝てたからほとんど聞いてないのだけど。


まあそれはどうでもいい、副次的なはなしで、死体撹拌バイトをすることになった学生が主人公の「死者の奢り」は「飼育」の果てのようにおもえる。たびたび引き合いに出すことで無知を示すようで恥ずかしいのだけど、じぶんとたにんに区別がない、他者からの規定により確立する自己の存在しない、無意識下の夢のなかのような乳児の世界認識の感覚をフロイトは(厳密にはロマン・ロランは)「大洋性の感情」と呼んでいたが、きわめて狭い地区に強い結び付きで関わりあう「飼育」の村のひとびとは、少なくとも少年の目から見た限りということで、これとよく似ているようにおもえる。だからこそ、未知への恐怖はあっても、優劣意識のようなものがなかった(黒人兵の家畜のような扱いは劣等意識の裏返しである優等意識というより、彼が未知の生物であることがもたらす、むしろ無垢な、動物に対する態度のように見える)。しかし子供が大人へと成長し、様々な刺激から自己を確立してこの「村」を抜け出た先、待っているのは他者との隔絶だ。じぶんの意識はじぶん以外で感じることはできないし、またじぶんがたにんのそれを知ることもないという自明の結論。だいたいの場合、お互いの想像力がこれを補うこととなる。しかしすべてのひとが無限の間口をそなえた思考様式にあるわけではない。というか、じつはそんなにんげんなんか存在しない。それはただの錯覚なのだ。「死者の奢り」にあるあらゆる生者に対する違和感、管理人との“希望”についての不毛のやりとりや機械みたいな助教授などはここから表れてきている。死んで「物」と化した死者たちへのシンパシーも同じ感情の変形だ。要するに死者に対しては隔絶もくそもなく、それはそれじたいで完結した、小説みたいなものだから。


「そして生きている人間、意識をそなえている人間は躰の周りに厚い粘液質の膜を持ってい、僕を拒む、と僕は考えた。僕は死者たちの世界に足を踏みいれていたのだ。そしていきている者たちの中へ帰って来るとあらゆる事が困難になる」

おしまいにある「戦いの今日」もすごい。おはなしは「かれ」という平仮名の三人称で語られるが、どんなにはなしが一人称的に熱くなっても、ひょいっと挿入される客観的な「かれは~」がすっと毒気を抜いてしまう。かといってふつうの三人称のようにただ眺めているふうでもない、妙な距離感。このなかではいちばん動きのある小説でもあり、おもしろくて一息で読んでしまいました。


ずっとハードル高いイメージで読みそびれていた大江健三郎ですが、やっと手をつけることができました。この感想も何回も書き直してはいるけど、想像していたよりずっと抵抗なく読めました。これから、掘っていこうとおもいます。