SIN CITY | すっぴんマスター

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(※注:ゲーム攻略サイトではありません)書店員。読んだ小説などについて書いています。基本ネタバレしてますので注意。気になる点ありましたらコメントなどで指摘していただけるとうれしいです。

※ネタバレあり!



■『シン・シティ』
監督:ロバート・ロドリゲス、フランク・ミラー(原作)、クエンティン・タランティーノ
出演:ブルース・ウィルス、ミッキー・ローク、ジェシカ・アルバ、クライヴ・オーウェン、ブリタニー・マーフィ、イライジャ・ウッドなどなど

シン・シティ スタンダード・エディション


もうレンタルするの何度目かわからない、買ったほうがいいんじゃないかというくらい大好きな映画。原作となったコミックの作者であるフランク・ミラーが、ロバート・ロドリゲスのしつこさに音をあげて、ちょっとした短編(冒頭のジョシュ・ハートネットの場面)を試作したところこれがすばらしく、結局製作されることになったもの。出演者の渋い選択もすばらしく、豪華というのもあるのだけど、とにかくキャスティングのセンスを感じる。特にミッキー・ローク、イライジャ・ウッド、それにロザリオ・ドーソン。他の配役も、これ以外どう考えてもありえないというものばかり。これに気付けるってのが、やっぱりセンスなんだろうなー。


それから、指摘するのもアホらしいのだけど、映像美も比類がない。基本的には通してモノクロなのだけど、美女の唇や、瞳、ドレス、血、ミュータントの肌、そういうものにきわめて効果的なアクセントとして色が与えられ、信じがたいコントラストの妙を生んでいる。ブロンドの髪の、赤いドレスの、なんと鮮烈なことか。黄色いミュータントの、なんとおぞましいことか。そもそも、モノクロということがこれほどタイトだとは思いもしなかった。動画でありながらスタティックな印象を与えると同時に、この手の映画がどうしても孕んでしまう物語のウソっぽさが、これはフィクションのおはなしですよといわんばかりにいちど括弧でくくられて、逆に生き生きとした映画として成立してしまっている。数多い残酷なシーンも同様にしてモノクロであるために(血が蛍光塗料のようで生臭くない)、《残酷なシーン》として定義しなおされているため、エンターテイメントとしてとても見やすくなっているとおもう。いかにも合成の運転中の車外の風景も、古きよき映画やマンガへのリスペクトが感じられていい。




物語は「罪の街」と呼ばれるひとつの世界の内側におこる三つの風景から成り立っている。それぞれ、ブルース・ウィルス、ミッキー・ローク、クライヴ・オーウェンが、さまざなかたちにある大切な女のためにたたかうというもの。形式的には彼らのモノローグといったところ。ジェシカ・アルバ演じるナンシーがストリップのダンサーとして働く「クラブ・ペコス」が、いわば街の中心、この世界の交差点のように存在し、三人の男はすれちがうが、直接の接触は一度もなく、物語はそれぞれで完結している。この街はいちおうアメリカにあるようだが、外部の情報は物語的にも映画的にも完全に遮断されており、国家的な影響力をもって街を支配するロアーク一家が共通して直接・間接あわせて敵として扱われるが、それでもあるひとりの攻撃が他のふるまいに影響を与えるということもない。そういう意味では、やはりタランティーノの『パルプ・フィクション』が思い出される。


暴力が支配するこの街だが、法律としてこれが推奨されているわけではもちろんない。腐敗しきってはいるがいちおう警察もあるし、それなりのルールもある。しかし街中は銃声と血の匂いに満ちている。誰が決めたわけでもない、もののことわりのようなことが、街の真ん中を貫いている。それが「シン・シティ」という名前で呼ばれている真理である。ちょうどジョジョ第四部の杜王町が、たんなる平凡な田舎街でありながら明確な“顔”をもっていたように、この街はそれのみで全世界として完結し、住民たちを規定する。外部と具体的な接触のあるロアーク一家は、だから作品の構造からいっても“神”なのだ。作品の神であるはずのフランク・ミラーが、ロアーク枢機卿の下で働く神父…神の代弁者として出演しているのが象徴的。このような街はじっさいどこかにありそうだなーとは誰も考えないが、この世界はそれのみで機能しきっているために、普通に描いては決して得ることのできない奇妙なリアリティがここにはある。言うまでもなくそれは、三つのおはなしが、クラブを中心にして、空間的にも時系列的にも重なりあい、多層的に絡み合うことで立体感が生まれているからだ。要するに、中心となっている語り手の影に別の主人公の呼吸も同時に感じ取れるということです。


街の住民たちは、暴力がこの街を支配することそれじたいに憤っているわけではない。彼らはそれを受け入れ、みずからも暴力で問題を解決する。これはこれで、きちんと社会として成り立っているのだ。しかしそのルールをはみ出すものを、彼らは許さない。根拠のない、強権的な暴力…つまり反抗の許されない一方的な暴力に憤っている。この街では殺しあうことで、ひとびとの存在が成立しているから。ドワイトと娼婦、ジャッキー・ボーイのおはなしで殺人兵器ミホ(デヴォン青木)という無敵の日本人が出てくるが、彼女のつかう飛び道具はまんじ型をしていた。しかしゲイルをとらえた一味のあるひとりの額には、逆まんじ…反ユダヤ主義、強権体制的ファシズムの象徴が彫られていて、ミホの放つ矢によって貫かれる。これは偶然ではないでしょう。


ちょっと時系列を整理してみます。矛盾があったら遠慮なく指摘してください。また僕は原作を知らないため、これはあくまでこの映画を一個の独立した物語として読んだ推測であることを断っておきます。


まずハーティガンが八年の拘留ののち、ナンシーを探すためおとずれたケイディの店には、ミッキー・ローク演じる不死身のグラディエーター、マーヴがいる。したがってこれはマーヴがゴールディと出会う前のエピソードということになる。目的のない人生こそが地獄だとした彼の虚無的な視線も、これを示すとおもう。他方、マーヴのエピソードにゲイルたち娼婦が登場するところがあるが、ここにはベッキーの姿が見える。となれば当然、これはドワイトの物語の前ということになる。だからおはなし全体は、ハーティガン、マーヴ、ドワイトの順番だと考えられる。つまり、ラストにハーティガンの“シンシティ最後の正義”と称された無垢なる物語を据えた以外は、見たまんまということになる。マーヴの物語におけるナンシーが、ハーティガンのはなしに描かれた家にそのまま住みながら、いちおう生きていることから、その正体はロアークにはばれていないことが確認できる。大学生云々ということや、法律を学んでいた伏線などからは、彼女がどこかの段階で大学に入学したのではないかとも想像できる。ハーティガンといた時点ですでに大学生だったのかも?正義は受け継がれているわけですね。しかしハーティガンが農場に向かうとき、道路脇にあった街の標識は「BASIN CITY」となっているが、マーヴが同様にして農場に向かう際には、おそらく同じ看板の「BA」のぶぶんに銃弾がうちこまれ、「SIN CITY」となっている。これはハーティガンの、正義の死を意味しているのだろう。
またマーヴのエピソードで枢機卿は死亡していることから、ドワイトの時間でロアークがどれほどの権力を維持できているのかはわからない。ロアーク議員はあくまで兄の枢機卿のちからでその地位を手にしたはずだから。ゲイルを痛めつけていたあのナチっぽい集団が「新しい主人が云々」といっていたことを考えると(ヴァレンキストって誰だよ?)、このとき街を支配しているのはロアークとはべつものなのかもしれない。ハーティガン、マーヴがその命を賭けて目的を達したにも関わらず、また新たに街を支配しようとする者があらわれたということなのかな?この世界のバランスということを考えたとき、両極端にある善と悪は、いっぽうのみで存在することはできないのでしょう。だから、目的ではなく正義感から行動に出たハーティガンは特別なあつかいなんですね。もしこの作品に続編があるとするなら(あるみたいだけど)、ナンシーという人物がさらに成長して正義を確立し、物語の構造的に悪と拮抗するようになって以降が描かれるにちがいない。




黄色いミュータントのじっとりとした地縛霊みたいな存在感もすばらしい。あのおぞましく突き出た腹は原作のものなんだろうか?センス!

ロザリオ・ドーソンの野蛮な色気みたいなもののつくりこみも非常に完成度が高く、娼婦たちが建物の屋上から血の空を背景に路地に向けて銃を乱射するビッグ・ファット・キルの場面はぞっとするほど美しい。ブリタニー・マーフィの、経験豊富なのにいつまでたっても恋愛下手な感じもいいですね。


作品の性格から、見るひとを選ぶところはあるでしょう。しかし個人的には超A級の名作だとおもう。