今週の闇金ウシジマくん | すっぴんマスター

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(※注:ゲーム攻略サイトではありません)書店員。読んだ小説などについて書いています。基本ネタバレしてますので注意。気になる点ありましたらコメントなどで指摘していただけるとうれしいです。

サラリーマンくん18/第109話


融資詐欺の連帯保証人に、板橋は“親友”、小堀を選んだ。

実りのない環境にくじけそうになりながらも、健気なほど必死に小堀は生きている。栄養ドリンクがぶ飲み、眠気覚ましガムかみかみ、唯一ひとりになって、世界と離脱することのできる車内でリセットを済まし、仕事にのぞむ。取引先の病院でも、マジメで、気がきいて、誠意をもって仕事をこなす小堀の評価はあがってきている。やがて小堀はある医者に、機械を入れ換えるから今日の三時半にじぶんの部屋にきてくれないかと持ちかけられる。(小堀は医療機器メーカーの営業)。



「地道な努力がやっと形になってきたぞ!!

神田先生には他の業者が猛アタックかけてるって聞いたけど…チャンスだ!!」




小堀の妻は、ご飯をひっくり返して暴れる由花ちゃんについ手をあげそうになり、自己嫌悪に陥る。にんげんというもののそれぞれが、それぞれのうちに地獄を抱えているということがよく表されているとおもいます。小堀が妻の内側にある闇の深さを共有レベルで知覚しないかぎり、妻側からの理解も同様にして望めないだろう。ほんらいそれが結婚ということの意味だと僕はおもうんですがね。じぶんがいちばん疲れてる、っていうおもいが先に立ってしまい、救いがたい共感地獄に陥ってしまっている。じぶんの記憶の枠内だけで世界のすべてを捕捉している状態ですよね。



他方、板橋と融資詐欺のはなしをすすめる丑嶋は、小堀の実印と印鑑証明、さらには小堀じしんのサインが必要だと言う。それはなんとか用意するが、また金を借りれないかという板橋に、丑嶋は審査のゆるい他の業者を紹介する。“普通の”闇金は警察や弁護士が入れば泣き寝入りしてしまうはずだから、借りるだけ借りてバックレろ、ということだ。へー、闇金ってほんとにそうなんだー、みたいな反応をする板橋を、睨むでもないが凍るような視線で丑嶋は貫く。カウカウ・ファイナンスが“普通の”闇金でないことは、僕らはよく知ってますよね。



そのころ(?)、三時半まで車内で仮眠をとるつもりでいた小堀は、うっかり寝過ごしてしまうのだった…。15秒も時計を見つめないと事態に気付けないほど、小堀は疲弊しきっているみたい。



今回のはなし読んで、どうでした?病院での小堀の評判がいいことや、神田先生から仕事をもらえそうなのを見て、ひとごととはおもえないような喜びがわきませんでしたか?また約束をすっぽかしてしまうのを読んで、心底あせり、がっかりしませんでしたか?僕はしました。板橋という“負”の存在は大きいですよね。正と負は、すべての概念と等しく、その差異性から相互規定される。カントの有名な思考実験に、観察者も含めて、なにも存在しない宇宙空間にひとつ浮かぶ「手」を想像したとき、我々はいかにしてこの「手」を右手あるいは左手であると判定するか、というのがあります。この際、当然のことながらいま我々が抱いている左右という概念をもちこんではならない。


※参考―『自然界における左と右』マーティン・ガードナー著 紀伊國屋書店
新版 自然界における左と右


仮にここに、両手の先がない人間をひとり、「手」のそばに想定したとする。はめこんでみると、どうやらこの手は左手のようだということがわかった。しかしここに矛盾が生じる。この「手」がその人間のあらわれる以前から変わっていないとすれば、僕らが彼の左手にこれをはめこむ前から、この「手」は左手であったことになる。左と右を区別する基準が最初からあったということになる。ではどこに?「手」以外なにもないのに。



この混乱を、上記のガードナーは平面世界を用いて解決する。いま、ある平面の二次元の世界で同様のことが起こったとする。ぺらぺらの世界に「手」のかたちをしたぺらぺらのそれがひとつ。ここにぺらぺらの手なし人間を与えて、どちらかの手首にはめこむのだ。このとき、平面世界の人間も、僕ら同様混乱するはずだ。しかし僕ら立体世界、三次元の住民は、なにが奇妙なのかわからない。なぜなら、僕らはそのぺらぺらの「手」をいちど持ち上げ、ひっくり返すことで、逆の手と交換することができるからである。僕らには平面世界の左手と右手に区別などないのだ。これはことばの問題なのだ。同じく、三次元のある一方の「手」も、より高次の四次元でひっくり返せば、他方の「手」になるのである。

「ハンプティ・ダンプティがいったように右とか左とかは、われわれがそれぞれ意味を与えるのであって、それ自体に意味があるのではない」(同書、17章―第四次元より)



脱線しすぎだな…。とにかく、小堀と板橋の構造上の関係を考えたら、なんかこのはなしを思い出してしまいました。これはソシュールのシニフィアン、シニフィエの考えかたにも通じる気がする。僕らは最初から意味を孕んだ世界に名前をつけるのではなく、言葉が僕らの認識世界を編み上げ、規定するのだということ。そしてまたそこから生まれ出たことばも、その差異性から相互に規定しあうのだ。「右」という概念は「左」という概念を規定し、また「左」という概念は「右」という概念を規定する。「男」と呼ばれるものがあるからそれ以外は「女」と呼ばれ、また「女」という言葉で説明されるものは「男」というものを規定する。


長くなったけど、このことを二項対立的に単純化してこの物語にあてはめて考えてみると、構造的には「小堀」と呼ばれるにんげんを規定するのはまちがいなく「板橋」だとおもわれる。逆も同様。板橋のいう「堕ちるときは道連れだ」というのは、だからおはなしの構造的にもあてはまるとおもうのです。そして、だからこそこのふたりの「サラリーマンくん」は、こんなにも生き生きしているんじゃないでしょうか。板橋のいないこのおはなしで、僕らは小堀というきわめてマジメで平凡な男に、果たしてここまで感情移入できるだろうか?これの逆は成り立つ気がする。なぜなら板橋は平凡とは言い難いから。これを規定する存在はむしろありふれているから。


ウシジマはそんな感じですが、田中…。アフロ田中はウシジマのあとに読むべきだといつもおもいます。アフロじゃなくなっちゃったけど。

闇金ウシジマくん 10 (10) (ビッグコミックス)