僕がこう、書評でもなんでも、創作でない文章を書くとき、くどいほど「想像力」ということにこだわるのは、たぶんコンビニバイトをしているからなんですよね。働いたことのないひとはわからないかもしれませんが、おそらく想像されるよりずっと、あそこにはさまざまな種類のお客がやってきます。そういうひとびとの店内でのふるまいや、じっさいの会計時のやりとりなんかを考えると…想像力に欠けた、点でしかものを見れないにんげんのなんと多いことか。たぶんコンビニバイトという仕事じたいがかんたんなものと一般にはおもわれていて、かんたんなところがじっさいにあることが、彼らの「威張りたい病」を刺激するんでしょう。屈辱ですので具体例はあげませんが…。そういうひとはだいたいぎりぎり孫がいるかというくらいのおっさんです。もちろんひとくくりには言えませんが…。こんなにも微視的で、いかに威張るかということしか考えてないようなひとが子供を生み、また教育したのかと考えると、本気でこわいです。しかもこれはむしろ多数派のように僕には感じら
れます。
それでなんでこんなふうに敏感に想像力の欠如を感じとってしまうかというと、たぶん僕はこれまで友人に恵まれすぎていたんですよね。中学生くらいからすでに、友人たちのなかでは僕がいちばんアホだったとおもう。大学に入ると交遊範囲が広がり、ややアホ率はあがったようにもおもえるが、それでも幸い、僕のまわりにはいなかった。いても、それは無視のできる存在だった。要は、ついてたんですよね。あたまのいい友人たちに囲まれて。僕は安心してアホのままでいられた。
もちろんこれは、かなり一般化した物語ではあります。そこまで完璧に恵まれていたら、意識の共有を目指して本質的なコミュニケーションを手にするために小説を書こうということもなかったはずだし、そもそも他者との交差の不可能ということにも気付かなかったでしょう。もっと身近にも、ニヒリズムを呼ぶような他者とのあいだにある一枚の壁を感じたことは、それはむかしからありました。コンビニ云々というのは、あくまで側面、僕の感じる全体の、一部分にしかすぎない。でも、なんというか、そういうレベルじゃないんですよね。もうあれだ、言っちゃいますわ。つまりあたまわるいんですよね。…傲慢というものかな。
ただ、そういうひとたちと向かい合って、蒙昧をうつしたように平板な顔貌を目にするときの違和感や不安というのは、まちがいなく創作の初期衝動、小説的毒となるものだとはおもう。だからこれからも、おそれずに敏感に感じとっていかなきゃならないんですがね。これを感じとれないひと、またあきらめることができるひとは、表現者にはなれませんから。