■『ライフ・イズ・ビューティフル』
監督/脚本/主演:ロベルト・ベニーニ
1998年 イタリア
人生は、かくも愉快で、豊かで、美しい。そう思わせてくれる作品。
1939年、イタリア。無限の想像力でべらべらしゃべりまくり、ひとを楽しい気分にさせるのが得意な、ユダヤ系イタリア人のグイドは、女教師のドーラに恋をする。グイドは詩人で友人のフェルッチョが哲学者ショーペンハウアーのことばを引用した「意志が全て」を信じ、意志のちからでどんなことも可能なのだということをトリックまじりに示して、ドーラをときめかす。
数年後、目のくりくりしたかわいい息子ジョズエとともに、三人は幸せに暮らしていたが、やがてナチの人種政策が及んでグイドたちは連行され、またユダヤ系ではないドーラもみずから汽車に乗り込み、収容所へとつれていかれる。
グイドは、小さな小さなジョズエを怖がらせないために、あるウソをつく。これは点取りゲーム、ぜんぶ冗談なんだと。規則は試練であり、お菓子を求めれば減点され、兵隊さんが怖いのは悪人の役をしているから。1000点とればホンモノの戦車がもらえるんだよと…。
思考停止、想像力の欠如。僕はユダヤ人迫害について一般的な知識しかないし、それはなにも知らないも同然だから、少なくともナチについては、この映画を見る限りということになるが、主人公グイドは想像力に欠けたドイツ人たちに抗するかのように、まさに想像力で、幼い息子ジョズエの目前に世にも楽しき世界を展開してみせる。本編とは無関係だが、思い出されるのは1933年の焚書の儀式。『インディ・ジョーンズ最後の聖戦』でインディが奪われた手帳を取り返しに行くシーンの、あれですね。本音のぶぶんでナチズムに賛同するかどうかはもはや問題ではなく、ここでは思考停止が、無力な市民の最良の自己防衛、あるいは自己表現だったのだろう。ひとびとはナチ党の政策の弊害とされるさまざまな書物を手につかみ、火に投げこんだ。フロイトを焼き、マルクスを焼いた。人間がどれだけ理知的な生き物であるかを教えてくれる知性のかたまりを、焚火とした。こんなおそろしいことはほかにない。なにも考えず、疑問ももたず、あるいはもったとしても抗する術を知らず、迷わなくてすむように、人類最大の発明、我々の思考活動・理性の象徴を、焼いたのだ。どのように強権的なちからが市民のうえに働いていたかは問題ではない。この行為が発案され、現実に実行されたことが、僕は心の底からおそろしい。僕はナチズムについてくわしくないし、だからこの思想がいかなるものであったか口にすることはできない。しかし本屋や図書館に行けば、僕らはいくらでもこれを学ぶことができ、ファシズムの目的がどのようなもので、またナチズムのなにが問題だったのかを、じぶんなりに考え、指摘することができるはずだ。この映画の冒頭部からおしまいまで通して見られる、ナチの思想に侵されていくにんげんたちの、鉄板みたいに無表情な、蒙昧そのものの顔貌。「ファシズムとはなにか」とすら考えさせないことが、彼らの政策だったのではないかと、浅薄ですが、おもいます。
そしてそのように思想の停滞した一元的な世界を、グイドはその豊かな想像力で明るく愉快にとらえなおし、ジョズエにプレゼントするのだ。ここでは強制収容所という極端に苦しい環境に置かれているが、もちろんこれはなんでもない自由な場所でも同じこと。世界がどのように明るく、あるいは暗く見えようと、じっさいに世界がそのようなかたちにあるわけではない。“世界”は表情のない、眠る直前の赤ん坊のようなもの、冷たい視線にびびって萎縮するか、これを笑わせてやろうと努力するかは、本人次第なのだということを、グイドは文字通り人生を捧げて、ジョズエに教えたのだ。
ジョズエ役の子供がどうしようもないくらいいたいけで愛らしく、たまらない気分になります。この撮影についても「ゲームだよ」と吹き込んで行ったじゃないかとおもえてくるくらい、無垢で、まっさらで、こわいことなんかなんにも見せたくなくなる。“現実”なんか知らなくていい、そうおもわせます。
グイドが最後までウソをつきとおし、またジョズエが無邪気にそれを信じきるラストの一連の場面では、耐えられない、なんともいいがたい感動がわきおこる。いや、感動しちゃったんだもの。じぶんにうそはつけませんからね。人生は、かくも美しい…。