『ショーン・オブ・ザ・デッド』 | すっぴんマスター

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SHAUN OF THE DEAD/エドガー・ライト監督、サイモン・ペッグ主演 2004年イギリス



これがおもしろい。あんなこといって、ほんとはゾンビ映画好きなのかな。


『ドーン・オブ・ザ・デッド』のあの、「自分達以外全員ゾンビ状態」を、コミカルな世界観で表現したもの、といえばいいのだろうか…。次々と死んでゾンビ化する友人たち、そしてみずからの手でそれを始末しなければならないという哀しみが、むしろ現実的な、ぐうたらで役立たずの主人公ショーンやエドの存在と相殺されて、ファンタジーとして非常に見やすく、意識を付託しやすくなっているとでもいうか…。ドラゴンボールでいうところの「ヤジロベー効果」みたいなものですかね。


主人公ショーンは、役立たずで友達のいない、親友にしてルームメイトのエドを気遣うあまり、恋人のリズとの関係をなおざりなものにしてしまっている。デートの場所はいつもイケてない場末のパブ「ウィンチェスター」だし、約束はちっとも守れないし、なにより常にエドがくっついてくるため、ふたりで会うことができない。方向性のない生きかたは生活のあらゆるぶぶんからかたちを伴って表出し、勤務先の電器店でも、ショーンは17歳のバイトになめられている。そんなショーンは当然のごとくリズにも見限られてしまう。
そんなときに…ショーンが世間から分離していることを示すかのように、“人類ゾンビ化現象”は、淡々と、ほとんど「なんとなく」で進行していく。ショーンが街中をうろつくゾンビに普通に気付かずに買い物を済ませてしまうシーンはガチで笑える。
実害が及びはじめてやっとこの事件に気付いたショーンは、エドとともに、母親やリズを救い出して「ウィンチェスター」に立て篭もるという計画を実行する…


終始映画じたいの斜に構えたような皮肉な笑いが満ちていて、それがむしろこの映画をアホらしくしていないというのもおもしろい。この事件がはじまってから、ショーンというキャラクターは急にいきいきとし始める。リズに別れを宣告されたとき、彼は二階の部屋にとじこもる彼女のところまで壁をつたって登ろうとするが、このときはそれができない。しかし事件がはじまり、いざリズを助けようという段になると、彼はあっさりと二階まで登りきってしまう。17歳のガキになめられていた冴えない電器店員は、リズたちと合流して以降、まあマヌケは変わらないのだが、すっかり頼れるリーダーみたいに変貌する。もちろんこれは、ふるまいに方向性が、“意味”がもたらされたためである。なーんか生きてる意味わかんねえなーという具合に怠惰に逃避していたショーンは、目的ができたことで、あのように活力を得ることができたわけです。しかしただこういうことを描いた映画がどれだけ欝陶しいであろうかは、想像に難くない。それを、このブラックな笑いが中和している、
というのは都合の良すぎる見方かなー。


結末もすごい。特に一連のテレビ番組と裏庭の倉庫…。最後の最後まで、笑いのファンタジーに徹しているというべきかなー。ショーンが事件後に活発なにんげんに変わるわけでもないというのもおかしい。彼は好きで怠けてるし、「事件」と対比すれば、あんがいそういう日常のほうが現実らしいのかもしれない。



それにしても…ゾンビって、なんだろうなぁ…。なぜ映画のひとびとは、見た目が同じだからという理由だけで、ゾンビ化前後を区別できず、葛藤するのか。また逆に、なぜかんたんに区別を了解し、割り切ってこれを倒すことができるか。結局、見た目に含まれる記憶ということになるか…。うーむ。