亀田家の件って…どうなったんでしょう。ふだんテレビ見ないので…。
それにしても…亀田の興毅が謝罪したときに、誰もがやってることをきちんとやっただけの常識的なはなしだ、みたいなことをワイドショーかなんかで訳知り顔で語っていた「知識人(笑)」がいたけど、笑ったな~。想像力の欠如、みずからの想像力が欠けているかもしれないということすら想像せず「共感」に終始するひとびと…。教養あるひととしてテレビに出てるひとであれなんだもん、「大衆」が共感に走り、「共有」という概念なんか想像すらせず、だからじぶんが「商品」として「消費」するという立場からすべてを見ているということにもむろん気付かずにいるのも、しかたないのかもしれないな~。
この想像力の欠如という問題は、僕が得意げに書き続けている、表現の「共有」を忘れて消費者思想からはじまる「共感」に終始してしまうこの現状につながっていくと最近おもいます。じじつこれらが商品として機能しているというところが難しいんですが…。こちらの意識の高さが大切だというのは、そういうことです。大衆が「共感」に走り、つまり小説なら、じぶんの記憶を再体験するためだけの「おもひで再生装置」としてこれを捉え、音楽ならたとえばこれに加えてカラオケでうたうことや、昨今の「ジャズっぽいもの」に代表される「ジャズはムード説」、聴くことそれじたいにファッションとしての意味がある、みたいな主体が完全にじぶんに移ってしまうことになる。これは「表現」でなくとも一緒。ボクシングでも。ひとは「じぶんがたのしむために」ボクシングを見る。問題なのはそれもまちがいなくこの消費文明の内側で機能するためには必要不可欠だということ。金が動かなきゃ、おはなしにならない。これは一般論だけど、正論。だからこそ、こちらの意識が大切なわ
けです。「わかるやつだけわかればいいんだ」というかんがえはひとりよがりの独我論を誘い、文化の停滞を呼ぶ。アンダーグラウンドの、ガチのヒップホップや、演奏に徹底した音楽・ミュージシャン主体のジャズ、他者との交差を目指し、表現に命を賭ける小説、こういったものがいくら表現として優れたホンモノであっても、「大衆」がすべてを支配するこの社会では、生き残れない。だから、ひとりひとりの意識が重要なんですよと、そういうことです。
僕のこんな意見を不快に感じるひともなかにはいるとおもう。表現ってのはそんなにエラいのか、好きなものを好きなふうに受け取って、気持ちよくなって、なにが悪いのだと。別に悪くはないですよ。アナタガヨケレバソレデドウゾ。でも、僕は「想像」してほしいんです。そういうこともある「かもしれない」って。「かもしれない」と考えてみるべきなの「かもしれない」って。本来日本人は日本語の必然から空気を読む達人、想像力の長けた人種なんです。ハリウッド映画にひけをとらない心理ホラー、俳句などの類を見ない短詩文化、海外からは嫉妬から「サルマネ」と椰揄される手段すらはっきりすればなんでもモノにしてしまう応用力、そして着エロ(笑)、こういう具体的なことを考えればわかるはず。とにかく、「想像」してほしい…。