『官能小説家』高橋源一郎 | すっぴんマスター

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(※注:ゲーム攻略サイトではありません)書店員。読んだ小説などについて書いています。基本ネタバレしてますので注意。気になる点ありましたらコメントなどで指摘していただけるとうれしいです。

『官能小説家』高橋源一郎 朝日新聞社




官能小説家

こういう感覚は…やっぱり小説以外では表現不可能だ。たとえば、ある小説家が、こう、つきあいもながく、わかりあえて、かつ文学にも造詣が深い友人と酒でも飲みながら、語り合える機会が幸運にもあったとする。小説家は言う。読者なんてバカばっかだよ。おれの書いたことの半分も読んでない。あきらめて半分の読みですむものを書いてしまえば、いつのまにかそれは傑作になってしまう。小説を書く意味なんて、あるんだろうか。あたまがよく、小説家が拙いしゃべり言葉で口にすることがらもからだで理解できる友人は、応える。君の言いたいことは、よくわかるよ。でもそれしかないんだよと。友人は、小説家の苦悩を、ほんとうに、わかっている。しみじみと、知っている。しかし言葉にした瞬間に、小説家のおもいは、別のものになってしまう…。友人も、じぶんはよくわかっているということを口にする。しかし友人がおもうほどに、言葉は機能してくれない。おれが言いたいのはそういうことじゃない。どうすべきかなんてことじゃない。小説家はおもう。聡明な友人も、小
説家がそうおもっていることを知っている。結局ふたりは、だまってグラスのなかの酒を飲み干すことになる。だがこの場合は、ふたりが理知に富み、黙ってしまうのがいちばんの解決策と知っているぶん、まだましというものだろう。
高橋源一郎は、真剣に表現にとりくむ者すべてがぶちあたるにちがいない、この苦悩をよく知っている。だから、明治時代…小説による表現のパイオニアでありながら、あるいはだからこそ、小説の全体や未来が不幸にも(?)見通せてしまった偉大なオリジネイターたちの苦悩と諦念も、からだで理解できる。たんなる“ニヒリズム”ということでは説明しきれない、本質的な、他者との交差の不可能。そしてさらに問題なのは…、“多くの人間=パンピー、大衆”というものが、小説家も含め、そんなことを考えもしないということ。「わかりあえない」ということそれじたいにすら誰も気付かず、あるいは気付いても気にもとめないということ。こんなむなしいはなしはない。これじゃ小説を書く意味なんて、ない。というか、生きていく意味が、ない。多くのあたまのよすぎる、あきらめたり妥協したりできなかった不器用な天才たちは、このためにみずから命を断った。そういう意味で高橋源一郎はある程度こちらの思考システムに準備の必要な作家なのだろう。それは表現と
しては失敗なのかもしれないけど。しかしこの問題(ニヒリズム)は、別に表現者でなくとも、ある程度以上の訓練を積んだ者にとっては普遍的なことだとおもう。「共有」の姿勢にある人間なら必ず取り扱わねばならない、こたえのない問題。

この“わかりあおう”とする努力じたいの不毛を表現にしてしまったのが、僕の理解では、村上春樹。彼の小説にただよう喪失感は、ここからきている。しかし“放棄”はしていないように、僕は思う。彼が多用する卓越した比喩表現は…強く僕らの感覚に訴えかけるものだから。これらはむろん、作品全体が孕む比喩性にも直截的につながる。


(余談ですが、小説でも音楽でも、それを好きな者ほどマニアックな…無駄な知識ばかりもっているのは、この“わかりあえない”という大前提からくるのではないかとおもう。たとえば、うすた京介のシュールなギャグでもいい、MUROのつかうレアなネタでもいい、僕らがそのネタ元がなんであるかに気付けたとき、マンガ的音楽的には意味がないとしても、嬉々としてしまうというのは、この“わかりあえない”という潜在意識の反動が求める連帯感なのではないか。)


高橋源一郎のおもしろいところは、そういう視点をも、つきはなすように、シニカルに見ているところだ。これにかぎらず、彼の小説のかたちにメタなものが多いのは、たぶんそういう姿勢の必然だろう。ここでは、森鴎外らを登場人物にした章でこのニヒリズムが哀しく描かれ、高橋じしんに漸近する「おれ」の世界で、作家はアホだとかマヌケだとか書かれて、欝陶しいルサンチマンが中和されている。そしてふたつの小説世界はほとんど時間軸を無視したかたちで語られる。ちょうど、ファイナル・ファンタジーⅤで、ちがう次元のふたつの世界が物理的に一致してしまうみたいに。森鴎外は『官能小説家』という小説で、百年後、すなわち現代を舞台にして、「おれ」に『官能小説家』という小説を書かせ、また現在に生きる「おれ」は、じしんの『官能小説家』という小説のなかで百年前の森鴎外に百年後を舞台にした『官能小説家』を書かせる…。ここでは「時間」が意味を失っている。近頃ではこのようにメタな…作品の構造じたいに言及するような構造の作品なんて珍しくもないけ
ど、こんなかたちのものはあんまり見たことがない。ある作家がいて、彼は「自分が小説を書いている“小説”」を書いていて、じつは彼の住む“世界”は本物の彼が書いている小説の内側で、さらにはそういう小説を僕らが読む、というような、いつかシンジョーがかぶってた、口のなかに顔があって、その口のなかにまた顔があって…みたいな、マトリョーシカ的なものは多々あるけど、こうやってふたつの世界が永久反復的に相互に規定しあうというのは…。うまく読み取れないけど、高橋源一郎はなにかを発見したのかもしれないなー。


大衆はアホだ、っていうのは、思っていてもなかなか言えないこと。なぜなら「大衆はアホ」だから(笑)おれたちってアホなのかなぁとは微塵も疑わず、ただ怒ってしまうから。ひとりひとりなら問題なくても、大衆となると…。僕じしんは、アホなやつ大好きなんですけどね。それとは別のはなし。本来別個で、それこそ「わかりあえない」ものなんだもの、理屈なんて通じるわけない。大衆というのは、“ひと”というよりはなにか強い“流れ”みたいなものなのだ。それはしかたない。作中にこのような、印象的な漱石の述懐がある。


「百万の人間に同時に伝わる言葉はない。あるとすれば、独裁者や扇動者のそれだけだ。だが、百万の人間に伝えようとしなければその言葉はただちに腐ってゆくのである」


「腐ってゆく」というのは、このブログでもよく書いているように、“独我論”に陥ることですよね。この、哀しいほどの徒労感。高橋はおはなしの時間を露骨に破壊することで、みずからが先人たちに覚えているシンパシーを、生身のまま一致させようとしているのかもしれない。これも作中にくりかえし登場する、“現在”“ここ”の概念…。ふたつの世界は、“ここ”を巡って永久に振幅を続ける。収束はしない。正弦のグラフのように振動する。


リサーチしたわけではないのだけど、この小説を読んで、漱石や鴎外などの偉人が低俗に描かれすぎているとか、意味のない描写が多すぎるとか、そういう感想を抱くひとはたぶん多いんじゃないかとおもう。しかしそれははっきり言って、なんにも読んでないのとおなじだ。高橋源一郎がなぜ、フィクションの内側で、ニヒリズムからくる哀しみにまみれた彼らと、諦念に満ちて“故障しきった”彼らを対比させて、気の遠くなるような無限反復に埋め込んだのか…。まずこれを考えてみないことには、なにもはじまらないとおもう。しかし…こういうことは僕が高橋源一郎の小説を何冊も読んでるから言えることかもしれなくて、まずびっくりして拒否しちゃうのが普通の反応なのかもしれない。だってじっさい…なんで天下の森鴎外が、ギャル汚みたいな格好してAV出なきゃなんないんだよ…。だから難しいかもしれないけど…すべての価値基準、偏見をとっぱらって読むといいのかもしれない。となると、むしろ素人向けなんだろうか…(笑)


とにかくすなおな気持ちで、小説家=表現者という滑稽な存在が孕む自己矛盾、葛藤、哀愁、諦念、優越、冷笑、そして狂気、そういうはざまでおこる小説的振動に、身を任せてみてください。