『ハンニバル・ライジング』 | すっぴんマスター

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(※注:ゲーム攻略サイトではありません)書店員。読んだ小説などについて書いています。基本ネタバレしてますので注意。気になる点ありましたらコメントなどで指摘していただけるとうれしいです。

※ネタバレしてます。








『ハンニバル・ライジング』
監督:ピーター・ウェバー、原作:トマス・ハリス



ハンニバル・レクターはいかにして“カンニバル=人喰い・レクター”になったか?端的に言って、そういうおはなし。




第二次大戦下のリトアニア、じしんの城を離れ、山小屋に隠れて難を逃れていたレクター一家は、補給のために小屋をおとずれたソ連軍の戦車をねらうドイツの空爆にまきこまれ、幼いハンニバルと妹のミーシャを残して全滅してしまう。寒さにふるえるふたりのもとにあらわれたのは、ドイツ軍のグルータス一味。小屋に足止めをくらったグルータスたちは、空腹からついにはちいさなミーシャを殺害し、食す。
八年後、以来こころを閉ざし、口をきかなくなってしまったハンニバル・レクターは、収容されていた養育施設を脱走し、親類をたよってフランスにむかうが、生き残っていたのは叔父の妻にあたる美しき日本人、レディ・ムラサキだけだった。レクターはやがてみずからの生活様式のなかに強く生きるムラサキにこころを開くようになる。
しかしふとしたことから、育ちのよさ(ことばのふしぶしや、食卓に女性がきたら起立するところなんかからも、それはわかる)からくる上品さとは裏腹のうちなる異常性が目を覚ます。市場で買い物をしていたムラサキを下品に罵倒した肉屋を殺害し、さらには古き日本の武将たちにならい首を切断してしまう。
レクターは毎夜夢にあらわれる愛する妹を“食べた”男たちを、むろん赦してはいなかった…。




僕はこのシリーズが『ファイト・クラブ』や『マトリックス』に匹敵するくらい好きなのですが、どうしても納得できない点がありました。それは、あのように理知的で教養のかたまりであるレクターが、なぜあんなリスクを犯すのかということ。


映画では、少年時代の体験から、浦賀和宏『記憶の果て』で安藤くんが壊れたように、モンスターと化したみたいに描かれていましたが、これはたぶん、「贖罪」の意味も含まれていますよね。つまり、自分も妹を食べたのだということ。ラスト近く、レクターはグルータスにそう指摘されるのです。妹を食べた者をみんな殺すなら、自分も死ねと。幼く、同様にして空腹から朦朧としていたレクターはむろんわからなかった。しかし年を経るにつれ、考えたはずです。食べ物がなかったからこそ、あの男たちは妹を殺したはずだ。では、あのあとに意識朦朧の自分がすすったスープはいったいなんだったのか。レクターの意識は当然たどりつくはずのそのこたえから目をそむけた。そして軍人たちに憎悪を向けることで、その明らかな事実を忘れようとした。
映画を見るまえの、すなわちアンソニー・ホプキンスのハンニバルの印象では、仮に過去にこのような決定的な体験があったとしても、それはすべて意識のもとに制御され、ただ食べたいから食べるのだと、そう考えていました。しかしそうではなかった。ぜんぜん逆だった。レクターは愛するレディ・ムラサキの声に耳を傾けることもなく、「ジョブ」に翻弄され、殺戮をくりかえした。愛してると告げられたレディ・ムラサキは、レクターに言う。「あなたに愛に値するものがあるの?」と。


セックスとは、カニバリズム=人食いのアレゴリーだとなにかで読んだことがある。たとえば村上龍や山田詠美の性描写なんかは、完全にカニバリズムを意識していると僕は思う。好きなもの、愛するものとどこまでも一致したい、そのもののなかに入りたい、あるいはじぶんの中に取り入れたいという衝動じたいは、誰にもあるものだろう。というかこの感覚がなければ、それは愛ではない。たとえばキスなんかは、もっともかんたんな、相手のなかにはいる、相手をとりいれる“一致”の方法だろう。人間じゃなくても、たとえば音楽なんかでも、好きなものはどこまでも知りたいっていうのは普通のことだ。そして一般的には、セックスというのがこの“一致”の最終形態だろう。しかしそのさきにカニバリズムはある。相手を食べてしまうには、殺さなくてはならない。“殺害”という段階ぬきで、これはぜったいにありえない。だから僕らはこれをタブーとする。これは普通の感覚だ。『人喰い』という文字を見て、嫌悪感を抱かない人間はいない。僕だって、こうやって書くことじたい
にも、たんに映画や文化を論じているだけであるのに、やはり抵抗がある。ここでは「ひとを殺しちゃいけない→だから食ってもいけない」という理屈は、じっさいにはない。そんなことはいちいち考えない。ただ生理的に“ダメ”なのだ。レヴィ=ストロースの無意識的構造だろう。“普通の”人間にとっては、「おれはカニバリズムのかわりにセックスするんだ」みたいな思考の流れもないはず。あのように通常のかたちではひとを愛せないレクターにとっては、むしろカニバリズムがセックスの代用なのかもしれない。



いまなんとなく出てきたけど、レヴィ=ストロースの無意識的構造っていうのは、理屈のいらない『常識』を考えることなのかもしれないなぁ。僕の読んだいくつかの本はまだまだ入門書ですから、表面しか知らないわけだけど。このひとは民族の親族構造、近親相姦のタブーについて考えたひとでした。“人喰い”同様、“近親相姦”ということばにも、むろん罪にはならないけど、ぞっとする含みがある。これは世界中のあらゆる文化に見られるタブーだけど、これを否定する理由というのはいったいなんなのか?


「今日の常識はこれを、遺伝的によからぬ特性が出て、社会集団に悪影響をおよぼすのを避けるためとして説明するが、はたしてそうなのか。
理屈からすれば、逆にそうしたタブーがなければ、社会集団への悪影響はずっと軽くなるという説だって考えられるにちがいない。なぜなら、近親相姦がふえて好ましくない特性がもっとあらわになれば、問題とされる個体は、自然淘汰によっていっそうスムースに抹殺されてしまうだろうからである」
(『20世紀言語学入門』加賀野井秀一 講談社現代新書より)


レヴィ=ストロースはこれを「集団間の平衡を維持するしくみとしての女性の交換体系」として、無意識のうちに設定されたこのタブーに人間の普遍的な「構造」をみる。むろんこれは人類学的に他の命題についてもあてはまること…。カニバリズムのタブーにも、“ひとを殺しちゃいけない”ということ以前に、この無意識的構造がはたらいているのかもしれないなぁ。


あたりまえだけど、この記事はこれらの行為を推奨するものではありません。