以前、どこかで批評家の加藤典洋が「やれやれ」ということばのつかいかたについて分析していて、正確につかえているのは村上春樹と高橋源一郎だけだ、みたいなことを書いていました。しかし…ここにもいた。空条承太郎。
批評文についてはどんな内容だったか覚えてないんだけど…。ニヒリズムのさきにある諦念みたいなことだったろうか。
「ねえ今私が何やりたいかわかる?」と別れ際に緑が僕に訊ねた。
「見当もつかないよ、君の考えることは」と僕は言った。
「あなたと二人で海賊につかまって裸にされて、体を向いあわせにぴったりとかさねあわせたまま紐でぐるぐる巻きにされちゃうの」
「なんでそんなことするの?」
「変質的な海賊なのよ、それ」
「君の方がよほど変質的みたいだけどな」と僕は言った。
「そして一時間後には海に放り込んでやるから、それまでその格好でたっぷり楽しんでなって言って船倉に置き去りにされるの」
「それで?」
「私たち一時間たっぷり楽しむの。ころころ転がったり、体よじったりして」
「それが君の今いちばんやりたいことなの?」
「そう」
「やれやれ」と僕は首を振った。
(『ノルウェイの森』下巻より)
ちょっと例が悪かったかな…。
ここでおもしろいのは、カギカッコのあとの「~と僕は言った(首を振った)」のつかいかた。この何ページか前にも、
「ふむ」と僕は言った。
「やれやれ」と僕は言った。
というところがある。僕たちははたして「ふむ」と、「言う」だろうか。うえの引用文にかぎると、質問文にこれはつかず、ときどきはさまれるこの「と僕は言った」が村上春樹独特の会話文のリズム、上手さを引き出していることがわかる。無邪気な緑の、それこそ「やれやれ」としか応えようのないヘンテコな言に対し、ワタナベくんは質問までしてそれを最後まで聞いてやるが、「と僕は言った」のつく声は緑の言に対してひどく現実的にみえる。要するに「つっこみ」みたいなのです。普通に考えたらただの吐息にすぎない「ふむ」や「やれやれ」をわざわざ「言う」ところには、なにか地に足ついた、実際的なものを感じます。
いっぽうで、ちょっとめんどくさいので探しませんが、「立って歩き、呼吸し、鼓動」する、ワタナベくんにとって現実的な存在である緑に対し、直子との会話ではこの「やれやれ」はほとんど使われていないように思うのだけど、どうでしょう?
空条承太郎の「やれやれ」からも、ため息まじりのうんざり感とともに、諦めの先にある優しい「受け入れ」の姿勢みたいなものが感じられる。彼はジョジョのなかでは最重要キャラで、登場回数も多く、数え切れないくらいの修羅場も経験している。驚きや発見、恐怖や虚無みたいな段階は、とっくに過ぎちゃってるにちがいない…。そしてこの「受け入れ」というのが、名前にあるとおりまさに空条承太郎というキャラのモチーフなんですね。
『承』=
1.うけたまわること。ききいれること。
2.うけつぐこと。
(広辞苑より)
