『ジョジョの奇妙な冒険』第五部“黄金の風” 荒木飛呂彦
読み終わりました。思ったこと、書きたいことが多すぎて、なにから始めればいいのか迷うぜ…。
僕は第四部からこの第五部を、コミックスではなく集英社文庫で読み進めてきたのですが、これのおしまいには荒木飛呂彦の「あとがき」が収録されています。
「第五部『黄金の風』を描く時にぼくは考えました。(空条承太郎が「宿命」をうけおい、血統を「誇り」に立ち向かったのに対して※tsucchini注)、では『生まれて来た事自体が悲しい』場合、その人物はどうすればいいのだろうか?(略)。
で、もし「運命」とか「宿命」とかが、神様だとか、この大宇宙の星々が運行するように、法則だとかですでに決定されているものだとしたら、その人はいったいどうすればいいのだろうか?そのテーマがこの第五部『黄金の風』の設定であり、登場する主人公たちや敵です」
主人公ジョルノや、ブチャラティ、ナランチャ、フーゴ、ミスタ、アバッキオ、また敵の“ボス”や暗殺者集団、さらにはボスの娘トリッシュ…彼らはすべて「宿命」…まさに生まれ落ちた瞬間から人生に孕まれている、どうにもならない因業みたいなものを背負っている。「宿命」とは、どうにもならない、努力や根性なんかでは変えられないからそう呼ばれるわけだが、それではこれを抱えたままで彼らはどう生きていけばいいのか?
「その答えをぼくにくれたのは誰あろう、主人公たちでした。主人公たちは「運命」や「宿命」を変えようとはせず、彼らのおかれた状況の中で「正しい心(正しいと思える心※tsucchini注)」を捨てない事を選んだのです。正義の心の中にこそ「幸福」があると彼らは信じて。自然にそうなったのです」
この「正しい心=正しいと思える心」というのは、言い換えれば人生の矢印にふさわしいと「信じることのできる心」ということです。言うまでもなく、ジョルノからすればボスは「悪」だろうけど、どんな手段をもってしても常に絶頂であろうとする“ボス”からすれば「悪」はジョルノたちです。このおはなしに描かれているのは、なにが正しく、またなにが勝利すべきなのかということでなく、みずからの「信じられる心」が、「生まれ」のような宿命の内側でどのように、またどこまで働くのかということなのです。第四部の吉良吉影もそうでしたが、筆者じしんは、この単純な善悪二元論の特にどちらにつくということはなく、ちょうど真鍋昌平が『闇金ウシジマくん』に描くお客たちみたいに、役割=宿命目線ではなく、その内側でどのようにキャラクターが動くのか、ということに視点がしぼられています。僕らがジョジョの登場人物にここまで感情移入してしまうのは、こういう仕掛けがあるからなんです。『ウシジマ』でも、普通のひとが共感するのは難しいように見えるヤンキ
ーくんやギャル汚くんの痛みを、僕らはかなり間近に感じることができますが、それは、宿命としてのジョブそれじたいではなく、その内側を描いているから。だから、役割に負けてしまう「債務者くん」たちの死は実体をともなって読者の心を引き裂くし、宿命に負けてなるものかと、役割に立ち向かうジョルノたちを心から応援してしまう。
またこの第五部では、ポルナレフ(!)によって「矢」の、「スタンド」のさらなるちからが明かされます。スタンド能力には「先」があるのだと。ここらへんの展開・描写は、ちょっとわかりづらいようでもあるけど、僕はむしろ荒木飛呂彦以外の作家では表現不可能だったろうと思います。マンガっていう表現技法を、もう、めいっぱいまでつかいきっている。小説でも映像でも、どんなひとがやったって、こんなことはできない。やっぱこのひと、すごいわ。天才バカだわ。
「矢」を、すでに能力のある者につかうと、「その者は全ての生き物の精神を支配する力を持つことになる」というのも、すごい。精神を支配する、というのは、主観を支配する、ということと考えていいだろう。それはまさに、世界を支配するということにほかならない。「世界を支配する」って、ピッコロ大魔王をはじめ、あらゆる媒体のキャラクターが抱いてきた野望ですが、実際のところ、それってどういうこと?というのがありました。ひとびとに恐怖感を与えることなのか?政治的にすべてを意のままにすることなのか?これはいままでになかった種類の「世界征服」。すごい作家だなぁ。
他にも読みながらなにか思いついた気がするのだけど…まあ、思い出したらまた書きます。…あぁ、これがダメなんだよな。
