『アダプテーション』 | すっぴんマスター

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(※注:ゲーム攻略サイトではありません)書店員。読んだ小説などについて書いています。基本ネタバレしてますので注意。気になる点ありましたらコメントなどで指摘していただけるとうれしいです。

『アダプテーション』(2003米)監督:スパイク・ジョーンズ、脚本:チャーリー・カウフマン、ドナルド・カウフマン



『マルコビッチの穴』を書いた、デブでハゲで自分に自信のない脚本家のチャーリー・カウフマン(ニコラス・ケイジ)は、ニューヨーク誌のジャーナリスト、スーザン・オーリアン(メリル・ストリープ)の書いた『蘭に魅せられた男』というドキュメンタリーの映画脚本を担当することになる。しかし映画はこうあるべきだ、というガンコな理想・主義を抱くチャーリーは、やがて考えがすぎてわけがわからなくなっていき、袋小路に入ってしまう。いっぽうで、最近になって思いつきで脚本を書き始めたのんきで自由な双子のドナルド(ニコラス・ケイジ)はチャーリーが冗談でてきとうに口にしたすじを広げ、「多重人格」とか「猟奇殺人」とか「カーチェイス」とか、チャーリーの否定する「ありふれた」ネタでもってすいすい執筆をすすめていく。心が痛いけど、こういう現実ってよくありますよね(痛笑)

有名な脚本家マッキーの脚本家講座みたいのにもすすんで参加し、言われたとおりにほいほい書きすすめるドナルドはやがて…なんだろうあれは。映画の配給先?なんかの請負業者?…とにかくギョーカイのひとにもすばらしいと言われるくらいの「ありふれた」傑作を書き上げる。いっぽうで深くモノを考えすぎるチャーリーは、妄想…でもないけど、だんだんアッチの世界に近づいていき、高橋源一郎『日本文学盛衰史』に描かれていた明治の小説家たちみたいに極端な自然主義的方向に歩んでいく。すなわち、これは花についてのはなしなんだから花を書こう。いや、もともとひとつの細胞から生物は始まったのだから、その進化の過程を書こう。まてよ、筆者のスーザンはどうも『蘭男』のジョンに惚れてるみたいだ、スーザンを中心にしよう。ノンノン、脚本に悩むチャーリー・カウフマンを書こう。「脚本に悩むチャーリー・カウフマン」を書くチャーリー・カウフマンを書こう…。これらの葛藤は、実際にこの映画全体に写像されています。ものすごいメタな構造なんです。全体とし
てはシニカルな作品なのに、美しい花のシーンやメリル・ストリープの女性的な場面が多いのも、そういうこと。あとで書きますが、ラストにあるとってつけたようなハッピーエンドも然り。まるで、「小説を書けない」ことを書いて小説にしてしまった太宰治みたいだ。


どうにもならないところまで思考が煮詰まってしまったチャーリーは、あれだけバカにしていたマッキーの脚本家講座に参加してみることにする。席につきながら「おれは最低だ。こんなところにくるなんて」と心のなかでつぶやく背景に、マッキーの「映画に心の声をいれるなんてくずだ」という声が響く。こういう小さいところまで、メタ(笑)
質問コーナーみたいなところで、チャーリーは訊ねる。淡々とした現実を描くのはダメですか、と。これは、まさにこの『アダプテーション』という映画の、このシーンまでの展開のことですよね。マッキーはやりすぎだろってくらいブチ切れる。世界では毎日人が死んでいるのに、淡々とした現実などどこにある!そんなオマエのつくる映画で、なぜ私の大切な時間をつかわなければならない!ってね。すごい一般論を言うひとだよなぁ…カリスマなのに。

ま、とにかく、マッキーの叱咤に目が覚めたチャーリーは、彼を飲みに誘い、助言をあおぐ。マッキーは言う。ラストでうならせろ、と。この教えが、映画のおしまいにあるあの唐突な展開…エロ、殺しあい、カーチェイス、涙、死、そして露骨な「愛」に満ちたハッピーエンドに直截的につながる。はいはい、オモロイ映画つくってみましたよとばかりに、私小説からエンタメ小説にシフトチェンジする。おそろしく冷笑的…(笑)


「アダプテーション」には、「脚色」と「適応」のふたつの意味がある。映画内でも、両方の意味でこの言葉はつかわれている。あれだけ露骨にとってつけたようなおわりかたなのに、ちょっとじんわりくるような部分はたしかにあった。最初は、「ありふれた」傑作を書かねばならない現実に「アダプテーション」せざるを得ない、脚本家の皮肉な告発かと思ったけど…、ラストのキスの、あのさわやかで心地よい感じからは、ポジティブなものを感じないでもないんです。「アダプテーション=適応」もまあ、わるくはないな、みたいな。

はじまりにはマルコビッチが出てくることだし、もしかしたらつながったおはなしかもしれないですね。あれもひどくメタな映画だった…。もう細かいとこは忘れちゃったから、そのうち見直してみます。