『超恋愛論』吉本隆明 | すっぴんマスター

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(※注:ゲーム攻略サイトではありません)書店員。読んだ小説などについて書いています。基本ネタバレしてますので注意。気になる点ありましたらコメントなどで指摘していただけるとうれしいです。

小田原に行ったお得感を少しでも得ようと本屋に寄って、どっさり本を買ってしまいました。ハイ!これで今月はぜいたくなことひとつもできません!

本屋二軒行ったのだけど、やっぱり『田中』10巻なかったなぁ。まだでてないのか?ジャガー13巻はゲットしましたが。



『超恋愛論』吉本隆明 大和書房


小田原への往復電車のなかで読み終えてしまいました。つまり、とっても読みやすかったのです。吉本隆明の文章は、別に難解ではないんだけど、ことばの使いかたが独特で、文芸批評読み向けみたいなところがあります。それは哲学者のことばがどんどん難解になっていくのと似ています。哲学者は実際の生活からこたえを探しますが、批評家は創作された小説世界のこたえを模索するわけですから。
しかしこれは驚くほどかんたんに書かれています。「かんたん」と断じるのは危険な気もするけど…。いわゆる「一般読者」向けに書かれたのかなーなんて思います。「北村透谷」にふりがなふってあるし(笑)

書かれてあることについても、あれ?ここ掘らないんだ?みたいな部分があって、これはテーマのせいなのか吉本隆明も年をとって丸くなったからなのか(笑)、ちょっと判断がつかないけど、とにかく、これまで読んできたものに比べると、ライトな感じは否めません。

しかしそこは時代を代表する大思想家・吉本隆明で、漱石の作品を中心に文学視点から「恋愛」、「結婚」を考察する感覚は、とってもおもしろかった。漱石の『それから』、『門』、『こころ』などに見られる「三角関係」には、近代日本の後進性があらわれているのだという。あるひとりの女に、かたい、吉本によれば、同性愛並みに緊密な絆で結ばれたふたりの男が恋をして、三角関係が生じたとき、西欧の淡泊な恋愛観・倫理では考えられないくらいの葛藤が、三人それぞれのなかに湧きおこる。いっぽうの男は、当の女性以上の精神的つながりをもつ親友に対しての罪悪感から毎日苦悩の日々を送ることになり、もういっぽうも、関係を割り切ることができずに自滅の道をたどる。西欧なら、ただひとこと、「おれ、あの子好きだから、つきあうわ」と言えば済むものが、全然そういうふうにうまくは片付かず、馬鹿正直に抱え込むことになる。


「漱石が『言えない性格』を、そうとう極端なかたちで自分の作品の主人公に与え続けたことは、漱石がもっていた、ある資質のためだと思います。(略)。漱石が描く主人公のかかえる極端な『ためらい』は、漱石のもっていた倫理の過剰さと、自分の内面にどんどん入っていってしまう内向性をあらわしています。他人から見た自分と、自分自身が見た自分との間に大きなギャップがある。それを見過ごせないのが漱石の倫理観だったといえます。(略)。西欧ならば、この種のことで悩むことは、まずありえないでしょう。漱石がもっていたような倫理観、つまり日本の知識人における内向する倫理観とでも言うべきものは、西欧における倫理観とはぜんぜん違うものです」
(「第三章 三角関係という恋愛のかたち」から)


こういう考察もむろん興味深いのだけど、生身の吉本が語る恋愛観・結婚観というのも、純粋におもしろかった。ほんとうの恋は、双子がお互いのことをわかるみたいに、もう、遺伝子的にぴったりとくるもので、いわゆる「もてるもてない」は恋愛にはかんけいないとか、ふむふむというところです。こういうはなしも、あまり分析しすぎていないから、「生身」の感じがするし、なにより読みやすいです。勘繰れば、「世代交代」みたいな意識があるのかもな。あんまりでしゃばって、論じるばかりでなく、そろそろ導き諭す立場になろう、みたいな。あたまのいい人だから。
身近に結婚のはなしが出たばかりなので、恋愛からの結婚、そこで生じるあらたな生活世界、役割なんかのおしゃべりも、リアルに読めました。僕自身は、結婚の意味がわからない、みたいな、知識人ぶったアホにありがちな考えをもっていたのですが、つい最近に体がとろけるような幸せのぬくみを体感したばかりだったので、よけいに興味深かったです。