『哲学入門』竹田青嗣 | すっぴんマスター

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(※注:ゲーム攻略サイトではありません)書店員。読んだ小説などについて書いています。基本ネタバレしてますので注意。気になる点ありましたらコメントなどで指摘していただけるとうれしいです。

『自分を知るための哲学入門』竹田青嗣 ちくま学芸文庫
自分を知るための哲学入門 (ちくま学芸文庫)
(なんかこの題名、コンビニで売ってるような自己啓発本みたいでやだなー)


僕はこのブログで書評のマネゴトみたいな(マネゴトですらないかも。オママゴトくらいかな)ことをやっていますが、文学にしても哲学にしても、学校の授業やらなにやらでしっかり学んだことはありませんし、またその必要もない、ぐらいに思っています。僕は大学も理系だったし(数学科でした。真面目に通っていたのは入学からふた月くらいだけど)、小さいころから算数・数学だけはほっといてもできて、またこっちのほうが好きでもあったので、国語とか社会系の授業はほとんど眠りながら受けていました。だけど、エラそうにいえば、そういうこと(文章を読み込んで、「仕掛け」、「書かずして表現されているもの」を見つけること。なにが美しくてなにが野暮か知ること。そこからあらたに表現を発見すること。最後には自分のことばを見つけること)って自分で手に入れるものだし、教わったところで近道にはならないと思うのです。しかしこれは実はただの無知の強弁なのかもしれなくて、ちょっと難しい専門書を読んだり、そういうことを
真面目に解いているブログさんなんかをのぞくと、自分の一般的な知識・語彙の不足に愕然とするのです(ここでいう「語彙」は観念的な意味でなく、そのまま、ボキャブラリのことです)。


しかしこの本はすごいよかった。勉強になるっていうのはもちろんなんだけど…。勉強というのは、この本のなかにあるように「哲学を知る」ことにはつながっても、「哲学をする」ということにはならないのかもしれない。だって、自分のことばでない、どっかで聞き齧ったようなインテリくさい言葉をつかってみたところで、どんな哲学・表現が生まれるというのか?(YOU THE ROCK★も、ラップについて似たようなことを言っていました)。それでも、これも本書にあるように、「知る」ことは「する」ことのヒントとなり、新しい語彙は新しい表現につながるものでもある。
しかしこれもまた本書でくりかえし書かれていることで、カントは「人は哲学を学ぶことはできず、ただ哲学することを学びうるだけ」と言っている。先人たちの残したことばというのは、少なくとも「哲学をする」という立場からは「予備作業」に過ぎず、その先にいくまでは、「哲学」にはなんの意味もないのだと。

この本の最大の魅力は、読み易さです。一般的な哲学書と比べるとなんと平易な文体だろう(善の研究…)。当たり前のことだけど、哲学と言葉は密接に関わりあっているものです。というのは、物事を考え抜く作業が哲学であるに対して、言葉というのが思考の最小単位だからです。いわゆる「哲学書」に、難解、というか理解できない言葉の使い方が多いのは、『そうとしか説明のしようもない』から。読むほうは、ナチュラルに外国語でも覚えるみたいに、くりかえし「その言葉」の登場に接して、僕らがなんの疑問もなく、深い意味を知らなくても、たとえば「引導を渡す」という言葉をつかうみたいに、ふとした瞬間から、「その言葉」に含まれているものを体で知ることになる。外国語を翻訳して日本に入ってきた言葉、たとえば「真理」とか「社会」とか…。
(参考:加賀野井秀一箸『日本語の復権』〔講談社現代新書〕。良書ですので、いずれ再読して紹介します)
こういう言葉は黒船以前には国内に存在しなかったものです。しかし僕らは、概念的に、意味をちゃんと説明できなくても、使用することができる。「真理」とは、「世界を説明できるこたえ」だ、と解いてみても、やっぱりごまかしてる感じします(このブログでは「真理→こたえ」としています。「こたえ」のほうが胡散臭くないかなーと思って…)。「哲学書」も普通はそうやって力ずくで読んで、「体得」していくものなのでしょう。

しかしこの本は全然ちがう。いますぐに、しかもすばらしいことに、非常におもしろく読める。あとがきには、可能なかぎり平易に書くよう努めた、とも書かれてあって、見事に成功しています。筆者の竹田さんは哲学の専門家ではありません(と、自分では言っている)。たぶんそれがよかったんだろうなー。これまでいまいちつかめていなかった言葉(ソクラテスの「イデア」とか…)も、すんなり飲み込むことができました。


だけどひとつだけ…。筆者は「エロス」という言葉を多様していますが、これの意味がどうも…。この人は『意味とエロス』という本も書いているので、たぶん竹田的なキーワードなんだろうけど。ま、そういう感じです。


最後に、「ロマン」と「リアル」について、おもしろかったので、要約しつつ引用しておきます。

「青年期の自我は、しばしば“本来の自分”であることを求めてロマン的独我論の世界を固守しようとする。(略)。ここでひとは自分のうちの“絶対的なもの”を凝視し、そのことで現実との通路を失う。
またもう一方では(これが多くの場合だが)、ひとは自分のロマンが現実生活の中では背理的なものだという理由で、ロマンの方を徹底して噛み殺す。ここではロマン的なものはおよそ非現実的なものと同一視され、単なる夢想にすぎないものと考えられる。
だが(略)、ロマンとは単なる夢想なのではない。それは本来、人間が自己自身や世界を、つまり生を、意欲しつつ憧れるという心性である。(略)。このロマンを各自が自分の中でどのように処理するかという点については、誰にとっても面倒な難問が生じるのである。
ロマンを他者や現実と対立させ、自分だけの信念として抱え込めば、ひとはロマン的“独我論”に陥り、逆に現実の論理の前でそれを噛み殺せば、事実としての人間に落ち込むほかない。(略)。
わたしたちが自分のロマンや理想を生き延びさせる道すじは、じつはひとつしかない。他人との間で、その「妥当」の可能性を探ること、自分のロマンや信念を他人の中で試し、そのことで〈自我〉のありようを絶えず刷新するような仕方だけなのである」