『井坂洋子詩集』現代詩文庫 | すっぴんマスター

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(※注:ゲーム攻略サイトではありません)書店員。読んだ小説などについて書いています。基本ネタバレしてますので注意。気になる点ありましたらコメントなどで指摘していただけるとうれしいです。

この人を最初に知ったのは荒川洋治のエッセイでした。それもそのはずで、井坂洋子は荒川洋治のフックアップでデビューした詩人なのです。一緒に紹介されていた井坂さんの「朝礼」という詩を読んで、鈍い僕も、おっと、となったわけです。
それで読んでみると、短くてわかりやすい、荒川洋治いわく「十秒で読めてしまう」ものもたくさんあるのですが、あとのものははっきりいって僕にはほとんどわからなかった。というか本当のことをいうと僕は詩というものがよくわかりません。谷川俊太郎や北村太郎、伊藤比呂美なんかもたくさん読みました(あるいは、見ました)が、首を傾げていることのほうが多かった。ただ、この「わからない」というのをなにか頑なに、無知を盾に理解を拒んでいるという風にとられると困るのですが。そこにはたしかになにかがある(それすら感じないことも多いのですが)。ぬいぐるみの表面をあっちこっち押してみて、中に混入している小石を指先でわずかに感じるみたいに。高橋源一郎がどこかで、詩とはなんであるのかということを考える場所が詩だ、というようなことを書いていたように記憶していますが(自信はない…)、あるいはそれは書く側だけではなく、読む側もそうなのかもしれない。「考える」というとちょっとちがうけど、なにか詩の核み
たいなものが仮にあるとして、それは筆者自身もなんなのかよくわからなくて、それで言葉をいろいろぶつけてみることでかすかにでも輪郭を与えようとする。そして読むほうは今度はころころ床に転がっている言葉を拾い上げてよく観察し、心霊探偵みたいに中心を感じとる。もしかしたらそういうことなのかもしれない。それは小説にもまったく同じことが言えると思う。詩が肉体的なら、もう少し、精神的な位置にあるというだけだ。前に書いた、言葉じたいが普遍的に放つ美しさとはまた別で、道具としてたまたま言葉がある、そんな感じがする。もし人間が言葉でなく、たとえばまばたきを伝達の道具として使い始めたら、詩人たちはなんの躊躇もなくまばたきで詩を書くのではないか。この人に限らず現代詩を読むと、たとえばJ-POPのボーカリストたちが書く詞にあるような、きれいでキラキラしたものではなくて、なにか不器用な、無骨な印象すら受ける。言葉というものを疑って疑って、どんどん削いでいくことで、最終的には使いすぎて持つところのなくなった小っちゃい
消しゴムみたいなものが出てくる。あくまで個人的な感想だけど、そんな感じがする。
こんなキザっぽいことうだうだ書いてるヒマに、素直な気持ちでもう一回読んでみろってはなしだけど。なにごとも文章で明らかにしてみないと、いったいいまなにを考えているのか、どう思っているのか、自分でもはっきりしないのです。

ほとんどわからないと書いたばかりですが、北村太郎さんは好きです。あと谷川さんも初期のものは特に好きです。伊藤比呂美さんは『のろとさにわ』がおもしろかった。