『ゴヂラ』高橋源一郎 | すっぴんマスター

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(※注:ゲーム攻略サイトではありません)書店員。読んだ小説などについて書いています。基本ネタバレしてますので注意。気になる点ありましたらコメントなどで指摘していただけるとうれしいです。

図書館に吉本隆明を返しにいって入れ代わりにこれを借りたのだが、おもしろくて二時間くらいで読んでしまった。どんなに前衛的なことをやっていてもつまんなかったらおはなしになりませんよね。それでも、つまりおもしろくても、この人の書くものはやっぱりよくわからなくて、デビュー時に彼を否定した人々もほんとはただよくわからなかっただけなんじゃないかな。だけど、なんかよくわからん、では批評にならないから、つまり自分はこれを認め得ないのだ、と判断し、否定した。そんなところなんじゃないか。そして僕はそういう判断も納得できるとも思うのだ。僕だって、サークルの飲み会に久しぶりに行ってみて、隣の席で銀色の火星人がウーロンハイ片手にニヤニヤ座っていたとあれば、とりあえず飲みますか、と言う前にカメラを探す。
それは筆者も同じようで、彼自身、なにを書いているのかよくわかっていないようである。それでも、作品は完成した時点で(あるいは文字にされた時点?筆者の頭に浮かんだ時点?)宙に浮いたものになっていて、もう誰のものでもない。ということはつまり、読んだ僕のものである。僕が、作中で藤井貞和のいう「なにもわかってない」ファンだとしても、僕の読んだこの小説は僕のものである。

この小説を読んでなくて、かつこれから読む予定のある人はこの先を読まないでください。といって別にタネがあるわけでもないし、誰でも気付くことなんだけど。
このおはなしの語り手たちはすべて、この『世界』に違和感を覚えている。『陰謀』の存在を感じている。なにかおかしい。なんだこの感じは。俺はハメられてるんじゃないか。自明のことだけど、これはつまり、この『世界』が小説である、ということに登場人物が気付きはじめるという物語である。ラストの章で、かなり露骨なかたちでそのことは描かれているが、「世界は小説である」というような言葉は一度も出てこない。というのは、事実、この『世界』が小説なら、我々の住むこの《世界》も小説ということになるからである。少なくともそういう疑念を抱き得る、ということになるからである。これは、世界が小説であり得る、というおはなしではなく、『世界が小説であり得る』世界を描いたものである。
『ゴヂラ』を執筆したのは、本屋にいって表紙を見ればわかるように、「高橋源一郎」である。しかし『ゴヂラ』に描かれ、呈示されている世界を描いたのは、「ゴヂラさん」である。このゴヂラさんとは何者か。なぜゴヂラさんの創出した登場人物は、世界の秘密に気付いたか。それは、ゴヂラさんが一文字ちがいでゴジラさんではないからである。これは、さらに上の、メタレベルで小説世界を包括している我々の世界の高橋源一郎が、意図的な誤植をしたからである。題名を、タイプミスしているのだ。だから内部にいる人々は、酔っ払ってちがう人の靴を履いているときみたいに、お腹の中に違和を感じている。なんかおかしいな、と。ひとつの記号のタイプミスは、波紋が広がっていくようにやがて大きなバグを生むことになり、人々は実際に物語の「故障」を目にするに至る。地球に攻めてきた火星人や土星人も、なにか大きなマチガイがあることに気付き、撤退する。この、『火星人襲来』の章と『ぬいぐるみ戦争』の章だけは、なぜか他のものと文体を異にしていて、語り手も誰な
のかよくわからない。それはここだけが『ゴヂラ』の誤植に含まれていないからである。火星人は宇宙に住むものだし、『ぬいぐるみ戦争』におけるマリリンちゃんは、ぬいぐるみがしゃべらない世界、すなわち我々の世界に、夢の中で接続している。誤植を逃れた存在なのである。
作中に登場する、「本物の」夏目漱石と森鴎外は、影の総裁に雇われて悪の仕事にその才能を開花させる。一方で作中の「タカハシさん」は、正義の味方である。これはどういうことか。

彼らの存在自体は、果たしてバグなのだろうか?(普通に考えたらバグだけど)いずれにせよ、漱石・鴎外と、タカハシさんは対極の位置にいる(はずだ。影の総裁さんがあまり悪人っぽくないので自信はないが)。両者はもちつもたれつの関係である。タカハシさんは、『ゴヂラ』の中に住む高橋源一郎である。タカハシさんは夢を見る。漱石、鴎外、二葉亭四迷とステージで歌っている夢だ。実は影の総裁さんも同じ夢を見ている。彼らのうしろでベースを弾いているのだ。ふたりはこのことに世界の「故障」を見て、俯き、フリーズする。
マリリンちゃんの例を考えると、これは我々の世界への接続ではないか。夢の中で歌っているのは、だからタカハシさんではなく高橋源一郎である。とすれば作中の漱石と鴎外も、ソウセキさんとオウガイさんだろう。総裁の上司、悪のボスは、なんにでも姿を変えられる不定形の存在である。それは、少なくともここでは、悪が善によって定義されるものだからだ。ソウセキさんオウガイさんが文学者としての漱石鴎外の分身とすれば、ここで彼らが行う悪とは現実世界の文学である。文学を定義するのは世界であり、それは作中ではタカハシさん、つまりゴヂラさんなのではないか。しかし世界には誤植があった。だから影の総裁は仕事がないのである。悪が定義されていないのだから。ソウセキさんとオウガイさんが(総裁の目からは)順調に悪の仕事をすすめているのは、「有能だった」からだろう。というか、総裁が噂できいたという有能ぶりをゴヂラさんは描いていないので、本当のところ仕事などしていないのかもしれない。さもなくばもっとちがう根拠があるのか…


うぅっ…だめだ、限界だ。アタマ痛くなってきた…。矛盾点見つけても指摘しないでください…。もうムリっす。