ジョジョの奇妙な冒険 | すっぴんマスター

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(※注:ゲーム攻略サイトではありません)書店員。読んだ小説などについて書いています。基本ネタバレしてますので注意。気になる点ありましたらコメントなどで指摘していただけるとうれしいです。

ゲームと同じで、僕はマンガに関してもたくさんのものを広く読むというよりは、限られたマンガを、視線でページが減ってしまうくらい繰り返しくりかえしアホみたく読み返す人間で、この『ジョジョ』の第四部も小学生のころから何度も読んでいる。このマンガに関しては「部分」という条件も付け加わって、だから僕は東方仗助と空条承太郎以外の他のジョジョを知らないし、かの名高いザ・ワールド「DIO」についてもほとんどなにも語れない。だからほんとの意味で僕はジョジョファンではないのかもしれない。でも、これほどまでに魅力のつまったキャラが並んだマンガ(小説でも映画でもいいよ)というのも他にないでしょう。
作中の人物、マンガ家岸辺露伴が初めて登場したとき、こんなことを言っている。「(どうすればおもしろいマンガを描けるのか?)それはリアリティである。リアリティこそが作品に生命を吹き込むエネルギーであり、リアリティこそがエンターテイメントである。マンガとは想像や空想で描かれていると思われがちだが実はちがう。自分の見たことや体験したこと、感動したことを描いてこそおもしろくなるのだ」
これは完全に作者、荒木飛呂彦のことばだろう。「露伴」という名前は、伴侶と同義の侶伴ということばにつながる。仲間とか盟友みたいな意味だろう。また「岸辺」というのも、河や湖の向こう側、異次元をさしていて、つまり荒木飛呂彦のマンガ内での別人格ということなんだろう。
間違えてはならないのは、こう言ったからといって筆者がまったく同じ経験をしているというわけではない(当たり前か…)。これも岸辺露伴が初登場したところで、仕事場を見物にきた広瀬康一らの前でいきなりクモをとっつかまえ、ナイフをぶっさし、ペロペロなめはじめるシーンがある。
「どういう風に脚がついていて、どこに目があるかとか、メスとオスの違いはどこにあるとか、クモを描く場合、マンガ家は見て知っていなくてはいけない。(中略)味もみておこう。なるほど、クモってこんな味がするのか。これで今度クモを描くとき一風違ったリアルな雰囲気が描けるぞ」

つまりこういうことなのである。別に岸辺露伴はクモの味を描くためにこれをペロペロなめてみたわけではない。これはリアリズムと写実主義・自然主義のちがいをけっこうわかりやすく示してみせているのではないか(これらの定義はいまだに僕のなかではあいまいなのだけど)。古い、明治のころの自然主義の作家なら、たぶん一連の、クモをつかまえ、ぶっさし、ペロンとし、「作家なら知っておかなくてはならない」とつぶやく、こういうことをそのまま描くだろうが、リアリズム作家の岸辺露伴は、そのとき目にした細かくうごめく毛深い脚や舌先で感じた苦い(甘い?)体液を通して、世にもグロテスクな巨大グモ(あるいは足長グモ、みのむしみたいなクモ、ピアノを弾くクモ、恋するクモ、腕立て伏せをするクモ、友達に借金しているクモ、なんでもいい)を描いてみせるだろう。彼のいうリアリティとはそういうことである。そしてそういう信念のもとに描かれたこの登場人物たち、それに舞台である杜王町の魅力は、「すぐそこに実際にありそ
うな」感じからきていて、それというのは作者の目前に杜王町が「すぐそこに実際にあ」るからではなく、「すぐそこに実際にあ」るものを「ペロペロ」してみることで生まれてきたものなのである。村上春樹は、『若い読者のための短編小説案内』(文春文庫)のなかでこう書いている(勝手に要約します)。
「(三十歳という節目をむかえることで青春は終わったんだということを否が応でも認識させられそれを小説というかたちに残しておきたいと考える)でも、実際に何を書けばいいのかというと、それがよくわからない。ただ若かったんだという事実を描いても、それはリアリティを欠いた薄っぺらなものになってしまう。そこで僕らはかわりにファンタジーをひとつでっちあげるわけです。いくつかの重い事実の集積を、ひとつの夢みたいな作り話にとりかえてしまうのです。そこで初めて、読者も、自分の抱えている現実の証言をそのファンタジーに付託することができるわけです。言い換えれば幻想を共有することができるのです」
これがほんとのリアリズムということなんだろう。僕らは岸辺露伴のキモチワルイ絵を見て、でっかいクモがちゅーちゅー糸を吐きながら街を破壊するさまを目にして、作者の感じたクモの味を知ることができるのだ。


それにしても…昔から疑問なのは、「重ちー」の頭って、アレ、どうなってるんですかね…。