いちおう書評のカテゴリにあるブログなのに音楽の話が(といってもm-floばかりですが)増えてきてるな…。ブログ内で分類できたりするのかな?音楽も文学も僕と完全に嗜好が一致する人なんて少ないだろうから、読む人のことを考えると(いたらだけど)そのほうがいいですよね。でも、わかんないなぁ…。どうやんのかな。ドラえもんがいたらなぁ。
文体についてもまだなにか迷いがあって、書評のときはやや厳しい印象だけど、これは別に意識的なものではなくて、自然とこうなっていました。「ですます」はこちらも書きやすいんだけど、なんとなく偽善っぽくて、話が長くなるとちょっと鼻につくし、「である」は簡潔でも、少しエラそうですよね。そんなこといったってどうせ決められないから、自然と、なるに任せることになるんだろうけど。
いまさらながら吉本隆明の『マス・イメージ論』を読んでいます。僕には読まず嫌い聴かず嫌いするという救いがたい悪癖があって、なんか『ノルウェイの森』の一節みたいになっちゃうけど、無作為にたくさんの作家を読むというよりは好きな作家や作品を深く(というかただ繰り返して)読む人間で、だから三島、大江あたりはまったく手付かずだし、批評についてはせいぜい加藤典洋どまりで(この人は何を読んでもおもしろい)、小林秀雄なんてもう怖くて読めません。吉本隆明もそういう認識でした。僕の中でのこの人の印象は、1・よしもとばななの父親で2・この『マス・イメージ論』で高橋源一郎を激賞し(この言葉をきくと「漱石、芥川の『鼻』を激賞」と書かれた高校のときの文学史の教科書を思い出す。というかここでしか見たことがない)3・60年代末の学生運動に大きな影響を与えた、という程度の理解で、他の批評家同様読むのが恐れ多い気がして先のばしにしていた人です。読んでみると想像していたよりずっとおもしろくて、わく
わくしながら読めるんだけど、別に難解でもないんだけど、うーんなんだろ、ただわからないところも多くて、やっぱり難解なのかな。だからゆっくりゆらゆら読んでいきます。急ぐ必要ないし。安っぽい言い方になるけど驚くほどフレキシブルな考え方のできる人で(寛大である、という意味ではない)、新しく遭遇した経験も次々とかみ砕いて自分の語彙にできるところは高橋源一郎や、あと荒川洋治なんかにも似てるかもしれない。批評家体質というやつでしょうか。理系出身の人みたいだけど、どういう過程で文学の世界に来たのかなぁ。
これもいまさらだけど、ノトーリアスBIGの『ready to die』買いました。こないだベスト盤が出ましたね。この題名にして、ジャケットに赤ちゃんの写真を使うというのは、なんというマイナーな、屈折した世界観なんだろ…。音についてはとても好きな種類のサウンドです。生々しいラップもかっこいい。