■『犬婿入り』多和田葉子 講談社文庫
多和田葉子を最初に読んだのはわりと最近で、『群像』で短篇小説特集みたいのをやってたときだった(と思う)。次に読んだのは『海に落とした名前』で、これは図書館で借りた。この人の小説はほとんど文庫化されていないみたいで(少なくとも僕には見つけられない)、同様にして日本でのデビュー作「かかとを失くして」を含む『三人関係』を借りた。これは、僕の内ではかなり決定的なものだった。
「自分自身だと思っているものを生み出してくれた言葉」とは異なる文化圏に、書類結婚というほとんどよくわからない理由で投げ込まれた主人公は、「かかと」を失いつつも新たによりどころとするべき文化的規範を手にしようと(?)街の中をうろうろする。手元に本がないのでちょっと正確なことは言えないのだけど、そんな話だった気がする。たしか、すれちがう子供だかおばあさんだかに「かかと」について指摘されていたようにも思う。とにかく、筆者は街と主人公の身体的な不調和を異質感たっぷりに描き出す。はっきり思い出せないので『犬婿入り』の解説をちょっとカンニングすると、街の人々はみんな「前につまずくようにして歩いている」。ここで「かかと」とは「自分を生み出してくれた」ものである。電車からホームに降り立った瞬間から彼女は既存のかかとを失い、外国の街中をかかとなしの爪先歩きで行くことになる。「前につまずくようにして歩いてい」たのは彼女のほうだった、というわけだ。
『犬婿入り』の「ペルソナ」では、この、街と自分とのあいだにある異質感がもっとくっきりとした形で書かれている。道子は弟の和男とドイツで二人暮しをしている。二人とも学生で、留学にきているのだ。ある日道子は友人の勤務先の精神病院でセオンリョン・キムという看護夫を知る。そしてふとしたことからセオンリョンは悪意の噂を流され、ここで「東アジア人」としての「顔」が問題になってくる。
この本は文庫化されていてわりとじっくり読めたせいか、不思議な文体が目につく。文末に「~のだった」とか「~思うのだった」というような言葉が、同じパラグラフの中に、というか隣り合って、繰り返しくりかえし出てくるのだ。奇妙な点は他にもあって、たとえば道子の恋人らしきトーマスという男は、少なくとも主軸となっている空間には、一度も登場しない。道子の回想内には何度も出てくるのだが。そして物語の視点はころころ変わる。うしろの二点は異質感をおこすための小説上の仕掛けとしても、前の繰り返しにはどんな効果があるのだろう。
実はこの繰り返し・反復はここだけの話ではない。あなたは何人か、韓国人かベトナム人かと尋ねられ、道子が日本人だと応えると、「トヨタか」と言われる場面がある。一方、物語のラスト近く、スペイン製の能面はニセモノか否か、という話になったとき、道子は奇妙に断定的に、それなら日本製の自動車もみんなニセモノだ、と口にする。「トヨタ」は、「かかと」を失っていた道子が、街と調和するために逆説的に生み出したペルソナだろうか。「何者か」であったほうが過ごしいいこともある。だが実際には道子は日本人のペルソナを扱いきれていない。というか、セオンリョンの事件をきっかけに、その存在を決定的につきつけられ、気付かされる。だから頑固に、というか蒙昧に日本人のままでいる佐田さんの顔に不快感を覚えるし、固体化したペルソナである能面に、嫌な気分になりつつも親近感を覚える。もしかしたら「~だった」の繰り返しは、自分が「日本人」を潜在的に着ていると思い込もうとしていたことについての、後悔、じゃないな、自責、ともちがう、なにか苦い
気分を表しているのかもしれない。
初めてこういう文章を書いてみたけど、思ったよりずっと大変だ…。読み返してみても「?」というところだし、解釈自体にも自信がないし…。これ、続くのかなあ…。
三人関係