こんにちは。

今回は前回に引き続き、邪馬台国はどこに

あったのか?を考える2回目になります。

 

前回の記事でも書きましたが

歴史に詳しいわけではないので

「地名は1000年経っても残る」の原則を

もとに、現代の地名から探していこうという

趣旨の記事です。

前回は、対馬国から伊都国までの定説、

奴国(なこく)、不彌(弥)国(ふみこく)、

投馬国(つまこく)までを

現代の北九州の地名と照らし合わせて

みてきました。

(だいたいよくある説と同じになって

しまいましたが。やはりオリジナルな

場所はみつかりませんね。)

 

今回は、本題の邪馬台国について、

北九州の地名と照らし合わせて

みていきたいと思います。

 

邪馬台国は「やまたいこく」ではなく

「やまとこく」と読むのがもはや定説

(学校の教科書も変わるでしょうか)ですので

「やまと」の地名から探してみます。

 

熊本県に「山都町」があります。この名称は

合併の際に公募で決まった名称ということで

邪馬台国との関係は見出せません。

山の都、まさに邪馬台国のイメージにピッタリ

なんですが、残念。

佐賀県鳥栖市の山都町も合併時につけた名称

だそうです。

 

佐賀市に大和町がありますが、ここも

3つの村が合併した際に大和村になったので

邪馬台国との関係は見出せません。

余談ですが、町内に「巨石パーク」があります。

山中に巨石群があるそうです。

なかなかに興味のそそられる場所ですね。

何か気になる場所・・・。

 

福岡県春日市大和町、柳川市大和町、

福岡市西区上山門・下山門など「やまと」

読みの地名はありますが、やはり由来をみると

邪馬台国との関係は見出せませんでした。

 

福岡県みやま市瀬高町山門、ここは

旧「山門」郡であった場所で、この旧山門郡を

邪馬台国に推す説があります。

(みやま市には女山、昔は女王山と呼ばれていた

山があります。それに遺跡も多いようです。)

ただし、みやま市あたりは昔は海岸線が

もっと山に迫っていたと考えられるため

たくさんの人が住むにはあまり適していない

と考えられています。

 

なにせ、魏志倭人伝だと7万余戸の家

があることになっていますので、7万余戸に

多少の誇張があるとしても、

相当広い平地がないと無理ですね。

稲を栽培する必要がありますので。

 

それにしても、この時代に

7万余戸の家って、数十万以上の人口の国に

なりそうですが・・・。40万?50万?もっと? 

ほんとうかなあ・・・。

熊本市で人口70万人超、鹿児島市で約60万人、

大分市で50万人弱だぞ、おい。

どんな規模なんだ、すごすぎるぞ、邪馬台国。)

 

「やまと」の「やま」は、日本の山がちな地形

を考えると、「山」を意味するのが、個人的に

しっくりきます。

(ただ、魏志倭人伝での倭の人々の生活の

記述を見る限りでは、明らかに温暖で海に近い

場所というイメージなんですよね。

山も出ては来ますが。海に潜って魚や

はまぐりを捕らえたり、真珠がとれたり。

人は長生きで百歳や八十、九十歳まで生きる

ってホントかいな?そういえば卑弥呼も

めちゃくちゃ長生きだったような。)

 

旧山門郡の地域だけでは、居住および

稲の栽培に適した十分な土地がないため

旧山門郡から熊本平野にかけて、という説が

ありますがこれが一番しっくり感じます。

 

そうすると邪馬台国の南にあったとされる

狗奴国(くな国)は、現在の熊本県の

球磨川流域の球磨地域と考えることができます。

古事記に出てくる熊襲(くまそ)が狗奴国に

あたるという説があり、「くまそ」の「そ」は

鹿児島県の「曽於(そお)」という説があります。

とすると、熊本県南部の球磨川流域から

鹿児島県にかけてとなります。

 

というわけで、北九州説をとるなら

邪馬台国は現在の福岡県の南端から

熊本県の北部にかけての説が妥当なのでは

と当ブログでは考えました。

 

近畿地方でも同様の記事を書く予定ですが

近畿での地名探しに行く前に

邪馬台国と連合している国々の名称を

北九州の現在の地名の中から見つけてみたいと

思います。が、それは次回にしたいと思います。

(ピタッとくるものもあれば、なかなか

当てはまる場所がないものもありますが

できる限り決めていきたいと思います。)