これは、葉月が17歳、花月が14歳の時の話。

 

季節は6月。梅雨の季節。

 

 

 

「あぁ…頭痛い…。」

 

早朝、花月は洗濯物を部屋に干しながら、

窓から見えるどんよりとした雲と

朝から早速しとしと降り続ける雨にため息をついて額に手を当てた。

 

闘病の末に1年前に亡くなった父を献身的に看病し続けた母が、

一気に気が抜けたからか疲れが蓄積していたのか、

今度は体調を崩しがちになり、家を空けることが多くなった。

 

その分、葉月と花月で日頃の家事を分担するようになったのだが、

兄の葉月は受験生。花月は率先して多くの家事を引き受けている。

 

家事自体は得意ではないが嫌いでもないので、別にそれ自体は苦ではない。

花月が悩んでいるのは、ここ最近続く雨の日の頭痛だった。

 

元々気圧の変化に敏感な花月は、

雨の日や台風シーズンはよく頭痛を感じる体質だった。

慣れているつもりだったが、この年の梅雨は本格的に長雨で、

毎日のように続く頭痛にさすがの花月も参っていた。

 

「花月ー 終わりそう? 朝ごはん準備できたよー」

 

「はーい、今いきまーす」

 

ダイニングの方から朝食を準備している葉月に呼ばれ、

我に返った花月は残っていたハンカチや靴下といった小物類をパパっと干すと

ダイニングに向かった。

 

 

 

「んー、今日は特に辛そうだね。少しは食べたら、無理しなくてもいいよ?」

 

スープとサラダを中心に少しずつ口に運ぶ顔色の優れない妹を見て、葉月が労わる。

 

「大丈夫。食べないと、薬飲めないし。

…でもパンとこのベーコンはやめとこうかな。

ごめんね、お兄ちゃん。」

 

ロールパンの乗ったお皿を脇によけ、

スプーンですくったスクランブルエッグの横にいるベーコンを見やって

花月が申し訳なさそうに言うと、

それはいいんだけど、と葉月が花月の皿からベーコンを自分の皿に移しながら

心配そうに眉を寄せる。

 

「本当にそろそろ病院行ったら? 市販薬、ずーっと飲んでても良くないよ。」

 

花月の傍らに置かれた常備している市販薬に目を向けながら葉月が言う。

 

「先週末に行くってお約束はどこに行っちゃったのかなー?」

 

花月がうっ、と言葉に詰まると、葉月は続けて揶揄い交じりの口調で言う。

 

「そんなにずっと駄々っ子してると、

お兄ちゃんが無理矢理一緒に連れてっちゃうよー?」

 

「だ、大丈夫! 本当に、酷くなったらちゃんと自分で行くから!」

 

必死な花月に、葉月は困ったように笑って、

自分の食べ終わった食器を持って立ち上がりざまに花月の頭を撫でた。

葉月は花月が恥ずかしがって嫌がっていると思っているようだが、

花月としては何より葉月の手を煩わせたくなかった。

 

「フフッ、そんなに嫌がるなら今週中にちゃんと行きなさい。

酷くなったら、って今がその時だと思うけど?」

 

「それは…っていうか今日もう金曜日…」

 

「だから今日明日で行きなさい。」

 

「そんな…」

 

しかし、気圧のせいと分かり切っているのに、

病院に行くほどのことなのかという思いもあって、

花月の足を病院から遠のかせていた。

渋る花月に、葉月はもう、と少し呆れた表情で言う。

 

「あんまり心配かけるようなことばっかりしてるとお兄ちゃんも怒りますよー。

とにかく、無理はしないで、何かあったらすぐ連絡。

病院は今週中。今度こそ約束。分かった?」

 

「…はーい。」

 

花月の食べ終わった食事を片付けに寄ってきた葉月にダメ押しでそう言われ、

花月は渋々返事をすると、

葉月が替わりに置いてくれたグラスに入った水を含んでいつもの市販薬を飲み込んだ。

 

 

 

 

 

「顔色真っ青だし…。さすがに今日は帰りましょう。

というか、よくそんなまで我慢したね…。」

 

養護教諭は昼休みに保健室に連れて来られた花月の顔を見るなりそう言った。

 

結局学校に登校しても症状は回復しなかった花月だが、

保健室に行くのも自らの意志ではなく、

給食をろくに食べていない花月を見て、

あと五時間目だけなのに、と抵抗する花月をものともしない友人たちに

強制連行されたのだった。

 

「一応早退になるから家族のどなたかに連絡しようか。

お迎えに呼べそうな人いる?」

 

「い、いえ! 大丈夫です、自分で帰れます!」

 

養護教諭の問いに、花月は間髪入れずにそう答えた。

 

「そう? じゃあ早退することだけ、一報入れとくから…」

 

「それも自分でするので! 大丈夫です!」

 

じゃあ、という更なる提案も即座に否定する花月に、

養護教諭は一瞬間をおいて分かった、と頷いて、メモ書きを手渡した。

 

「じゃあ本当に、気を付けて帰りなさい。

何かあったら、それが学校の電話番号だから、

家の人か学校にすぐ連絡すること。」

 

「分かりました。」

 

「はい。じゃあね。本当に気を付けて。お大事に。」

 

「ありがとうございました。」

 

ここまで言われてしまっては、さすがに帰るほかない。

教室に戻ると、予想していたかのように友人たちが帰り支度の世話を焼いてくれて、

玄関でお見送りまでしてくれた。

とっとと帰らせるためなのだろうが。

 

 

 

具合が悪いのは本当だったので、花月はとぼとぼと帰宅の道を歩く。

 

帰ったら洗濯物を取り込んで畳んだら寝るか…、

そんなことを思いながら家への最後の角を曲がった時だった。

 

「…え?」

 

家の前にタクシーが停まっている。

そして、その横に立っているのは葉月だった。

 

「お…お兄ちゃん…なんでっ…」

 

「おかえりー。保健室の先生から連絡もらったよ。

もう…結局ここまで無理して。」

 

「な、なんで、だって大丈夫って…」

 

養護教諭には連絡は大丈夫と言ったのに、と目を丸くする花月の問いには答えず、

葉月は花月の肩を叩いてタクシーに乗るように促す。

 

「ほら、とにかく病院行くよ。」

 

「え、で、でも私だいじょ…」

 

まだ言おうとする花月に、葉月はついにしびれを切らして低い声で花月、と呼んだ。

 

「朝言ったとおり、俺怒ってるけど?」

 

「っ…はい…。」

 

さすがにその兄の迫力には逆らえず、

花月はついに降参してタクシーで病院に向かったのだった。

 

 

 

 

 

処方薬とはすごいもので、病院から帰宅後、

軽く夕飯を食べて薬を飲んで寝ると、花月はみるみる回復した。

一度夜中に目を覚ましたが、頭痛がおさまった状態は久しぶりで、

軽く水分補給をした後そこから朝までぐっすり眠った。

 

すると、翌日土曜日は、まだ雨が降っているものの嘘みたいに頭痛はなくなっていて、

久方ぶりのすっきりした目覚めだった。

心配そうに部屋を覗いてきた葉月にそれを伝えると嬉しそうに笑ってくれて、

朝食・昼食、と胃に優しめの、でもとっても美味しそうな食事を出してくれた。

 

だから、忘れてしまっていた。

昨日の朝の葉月との約束のことも、

養護教諭とのやり取りも、

病院に向かう前の葉月の言葉も。

 

 

 

 

 

その日の夜。相変わらずリビングで部屋干ししていた洗濯物を畳み終えた花月を、

葉月が呼んだ。

 

「花月ちゃん。ちょっとこっちでお話ししよっか。」

 

「え…あ…えっと…」

 

その兄の顔を見て、花月は唐突に思い出した。

「怒っている」という葉月の言葉を。

 

「あの、お兄ちゃん…」

 

固まる花月を、葉月は再度呼んだ。

 

「こっちにおいで。」

 

「…はい…。」

 

険しい顔つきの葉月に続けざまに呼ばれ、

花月は葉月が腰掛けるソファの隣に座った。

 

「俺、昨日花月ちゃんとなんて約束した?」

 

「今週中に病院に行く…」

 

「うん。あともう一つ。」

 

「そ…れは…」

 

目をそらす花月だが、葉月はそれを許さず両手を花月の両頬に添えて向き直させる。

 

「もう一つ。花月ちゃんなら覚えてるでしょ。」

 

元来良い子の花月は言い逃れが下手だった。

誤魔化せない、諦めて、花月は正直に答えた。

 

「な…何かあったら…連絡する…」

 

「そう。でも、早退するって連絡は保健室の先生からしか来なかったなー。」

 

「うっ…」

 

痛いところを突かれ、花月が口ごもる。

 

「そもそも、その前の先週末に病院行くってお約束も破ってるし、

昨日も病院行くの最後の最後まで抵抗するし。病院行くっていうのもお約束でしょ?」

 

「ご…ごめんなさい…。」

 

自分の罪を並べ立てられ、

さすがに気まずくなった花月が目線だけそらして謝罪を口にすると、

葉月から花月の予想していなかった言葉が返ってきた。

 

「ダメ。」

 

「えっ…?」

 

「思ったんだよね。今回のこと、俺、花月ちゃんのことちょっと甘やかしすぎたかなって。」

 

「え…」

 

「母さん普段あんまり家にいなくなって、

花月ちゃんいつもはとっても良い子だから俺が叱るようなことなんてなかったけど、

今回はちゃんとお仕置きしよう、って決めた。

本当は最初の病院のお約束破りの時にちゃんと叱らなきゃだったなぁ、って

それは俺の反省。」

 

「お、おしおきって…?」

 

聞きなれない不穏な言葉に花月が恐る恐る聞き返すと、葉月はサラッと答えた。

 

「花月ちゃん自身はあんまりされたことないかもだけど、

学校じゃまだ残ってるでしょ?

お尻ペンペンのお仕置き。」

 

「えっ…/// や、やだ待って」

 

ストレートに言われたお仕置きの内容に花月が赤面して狼狽えるが、

もう心を決めていた葉月は早かった。

 

「待ちません。」

 

「やぁっ」

 

花月の頬に添えていた手を離すや否や今度は花月の腕を掴み、

葉月の膝の上に引き倒した。

 

「や、や…」

 

風丘家では、幼少期も含めてお尻を叩くお仕置きは一般的ではなかった。

もしかしたら遠い昔にそんなことがあったかもしれないが、記憶の限りではない。

 

学校では日常的にあった。が、葉月の言う通り、花月自身には遠い存在だった。

花月の時代は教室で皆の前で叩かれる、ということはなくなっていたので、

目にしたこともほとんどなく、

あっけらかんとしたクラスメイトたちが、生徒指導室に呼ばれて叩かれた、

なんて話をしているのを聞いた程度だ。

花月の友人にも一人常連がいて、その子から膝の上は子供みたいで恥ずかしいー、

なんて話を聞いて、

マンガみたいに膝の上で叩かれることも本当にあるんだ、と思ったくらいだった。

 

だから、お尻を叩かれる、この状況も初めてだし、

友人の言った通り確かに恥ずかしい、膝の上に乗せられるこの体勢も

もちろん初めてだし、

何なら葉月にこんなにしっかり叱られるのも初めてだし、

初めて尽くしに花月はろくに声も出せずに固まってしまった。

 

しかし、次の葉月のアクションにさすがの花月も焦ることになる。

 

「! お、お兄ちゃんっ!!」

 

葉月が花月の着ていたルームウエアのワンピースのスカート部分をまくり上げ、

お尻を覆うものが下着一枚になってしまった。

あまりの恥ずかしさに花月が叫ぶが、葉月は動じない。

 

「別に、辱めようってわけじゃないから。

ほとんど初めてだろうから手加減はするけど、

ちゃんと痛い思いして反省してもらわなきゃだからね。痛くするため。」

 

「で、でもっ…」

 

「恥ずかしいなんて思ってられないくらい痛いからね。覚悟しなさい。」

 

「えっ…」

 

そんな怖いことを言われた瞬間、振り上げられた平手が花月のお尻に落とされた。

 

バシィィンッ

 

「っいたぁぃっ」

 

痛い。

初めて受ける痛みは確かに、想像以上に痛かった。

そして、その痛みは立て続けにやってくる。

 

バシィィンッ バシィィンッ バシィィンッ バシィィンッ

 

「あぁっ…いっ…いたぁぃぃ…あぁぁっ」

 

一定で間髪なく与えられる痛みに、花月の頭は真っ白だった。

 

バシィィンッ バシィィンッ バシィィンッ バシィィンッ バシィィンッ

 

「ぅぅっ…っあっ…いぃっ…たぁぃっ…」

 

痛みに抵抗したいと思っても、

腰に添えられた葉月の手が重石のように感じられ、

花月の上半身は固まってしまっている。

無意識に爪先がパタパタと床を打つ程度だった。

 

バシィィンッ バシィィンッ バシィィンッ バシィィンッ バシィィンッ

 

「やぁぁっ…おにぃ…ちゃん…いたぃぃっ」

 

「痛いねぇ。こんなに痛いお仕置きされなきゃいけなくなっちゃった今回のことは

ちゃーんと反省するんだよ?」

 

バシィィンッ バシィィンッ バシィィンッ バシィィンッ バシィィンッ

 

「いたぁぁぃ…はんせいっ…あぁっ…します、ぁぁっ…するぅっ」

 

「うん。」

 

バシィィンッ バシィィンッ バシィィンッ バシィィンッ バシィィンッ

 

「あぁぁ…っ もう…いやぁっ…ごめんなさいっ…」

 

「うん、いい子。」

 

涙声の花月の「ごめんなさい」を聞き届け、葉月は花月の頭を優しく撫でながら、

しかし同時に放った言葉は花月にとって絶望的な容赦のないものだった。

 

「そしたらあと何回痛いの我慢したら

これからお兄ちゃんとのお約束守ってもらえるかなぁー。」

 

「!? やっ、もうちゃんと守りますっ」

 

葉月の非情な言葉に花月が慌てて口を開くが、葉月は厳しかった。

 

「でも今回3回もお約束破られたからなー。ついでに先生との約束も破ってるし。」

 

「もうしません…。しないからっ…」

 

「それを忘れないようにするお仕置きだからね。

今まで甘やかしすぎた分、今日は甘やかさないって決めたし、

最初が肝心だし…あと30かな。」

 

「ふぇ…」

 

賢い花月は痛みに泣きながらも今までの回数を何となく数えていた。

そして宣告された回数は今まで受けた分よりも多い回数。

 

涙を零して葉月に縋るが、宣言通り今日の葉月は甘やかしてくれなかった。

それどころかさっきよりも心なしか強い平手が降ってきて、

あんなに優しい兄が本気で「怒っている」と宣言するなんてよっぽどだったのだと、

いたーい平手に泣きながら本気で反省する花月なのだった。

 

 

 

「ふぇっ…っく…ふぇぇぇぇぇ…」

 

「あぁ…そんなに泣いたら目が溶けちゃうよ?笑」

 

「だって…だってぇぇぇ…」

 

30発何とか耐えきった花月は、葉月に抱き着いて大泣きしていた。

 

よく頑張りました、と葉月に抱き起され、その葉月の笑顔を見た瞬間にもうダメだった。

中学生になって、家のこともするようになって、

兄に甘えることも小学生の時よりだいぶ少なくなっていたが、

この日はもうタガが外れてしまった。

 

「まぁ、こんなちゃんとしたお仕置き初めてだろうしねぇ、しょうがないか。

フフッ、痛かった?」

 

「いたかったぁぁぁっ」

 

「まぁ、でもまだスカート捲っただけだからね。次オイタが過ぎたら今度はお尻出してもっといたーいお仕置きかな。」

 

泣きじゃくる妹をよしよしとあやしながら、

しかし今日の葉月は厳しくしっかり釘をさす。

 

「やっ…そんなの無理ぃっ…」

 

「…なら、俺との約束はちゃんと守ること。

俺が約束してって言ったことだけはちゃんと守ってほしいな。

普段はいい子過ぎるくらいだから多少のわがままやオイタはむしろ歓迎なんだけど。」

 

分かった?と頭を撫でながら泣き腫らして真っ赤になった顔を覗き込まれ、

花月は恥ずかしそうに顔をそらす。

すると、葉月はすかさずまた両頬に手を添えて目を合わせる。

 

「分かったー?」

 

「…はい。」

 

花月は小さく返事をして、頷いた。

その様子を見て、葉月はニコッと笑う。

 

「よし、これで初めてのお仕置き、全部終了!」

 

葉月に揶揄い交じりにそう言われ、花月は恥ずかしさを紛らわせるかのようにまた葉月に抱き着くのだった。

 

 

 

 

 

これが、花月が葉月からお仕置きされるようになったきっかけだった。

 

以来、高校生になっても大学生になっても相変わらず残り続ける兄からのお仕置きに、

それを受ける回数はそう多くないものの、

この時のことを時折思い出しては一人赤面しつつ、

「あの時約束を破らなければ…」と後悔する花月だった。