高校進学を控えた春休み。
仁絵のイライラのきっかけは、昨夜寝る前、夜更けにかかってきた執事からの電話だった。
風丘の家に居候するようになった原因の父とはすっかり疎遠になり、
全くと言っていいほど連絡はとっていないが、
執事からはちょくちょく(頼んでもいないのに)連絡が入り、
義母や弟のことなど家の様子を教えてくれていた。
仁絵としても、ずっと気を遣ってくれていたのに結果的にこんな状況に巻き込んでしまった義母には申し訳なく思っているし、
何も悪くない弟はあまり触れあいは多くはないが、それでも仁絵のことを兄として慕ってくれているのだ。
二人の様子は気にならないと言えば嘘になり、
父に出くわさないタイミングを見計らってたまに実家に顔を出したりもしていた。
そんな現状だから、父の話題は禁句。
それは執事と仁絵の間では当然の共通認識のはずだった。
なのにだ。
昨夜執事が電話してきた用件は、
久々に父を交えた食事の場を設けるから顔を出さないか、という全く気乗りしない誘いだった。
しかも難色を示せばすぐに引き下がる執事が、今回はしつこいほどに食い下がってきた。
思えばこんな夜更けにいきなり電話してきたことからも、
父に何かしらの指示を受けていることが透けて見えて、
久方ぶりに口汚い言葉を吐いて苛立ちのまま電話を切った。
ざわついた心のまま無理矢理眠り、翌朝。
起きてメールを開けば、なおも説得してくる執事の長文メール。
誤魔化すことを観念したのか、
父が仁絵を少しは家に連れ戻すように指示してきたことを明かし、食事の席を設けさせたのだという旨の内容だった。
もう1年以上ろくに顔も見ていない。
このままフェードアウトされることを危惧しているのだろうか。
勘当まがいのことを言っておきながら何を今更。
どうせ何か説教でもしようという魂胆だろうと思えば、
メールの後半は、まだ高校進学が決まったばかりというのに、留学だの大学進学だのの話題で埋め尽くされていた。
大方、素行がかなり落ち着き、まともに普通に高校進学した仁絵を見て欲目が出てきたのだろう。
弟はまだ小さく、どう成長するか分からない。
頭の回転や学習能力が人より多少良いことだけは昔から父にも認められていた。
しかし、だからこそ分かりやすすぎる変わり身に余計苛立ちが募った。
メールを削除し、執事の電話番号を一旦着信拒否にして、身支度を整えたら携帯と財布を持って部屋を出る。
苛立ちが収まるまで出掛けよう。
リビングも通らず、2階の自室からそのまま家を出ようとした時だった。
「こーら。仁絵君。どこ行くの。」
足音を聞いて気付いたのか、玄関からリビングへと続くドアが開き、風丘に呼び止められた。
「…ちょっと出掛けてくる。」
さしたることない会話だが、呼び止められた声に少し咎めるようなニュアンスを感じ取って、
少しふてくされた様な受け答えになってしまう。
「朝ご飯は?」
「いらねぇ。腹減ってないし、気分じゃない。」
「ふーん? 珍しいね。朝からイライラして。何かあった?」
あからさまに態度に出した自分も自分だが、ズバリ触れられるとよけい頑なになってしまう。
それがいくら穏やかな口調でもだ。
「…朝飯1日食わねぇだけだろ、別にいいじゃん、ほっとけよ…。」
視線をそらしたままボソリと言うと、風丘はふぅ、と息をついて口を開いた。
「苛ついてることは話してくれれば聞くし、嫌なら無理にとは言わない。…でも。」
風丘は腰に手を当てると、お説教モードに入った。
「朝ご飯は完食はしなくても食べるって約束でしょう。
それから、朝の挨拶も出掛ける挨拶もしないで出て行こうとしたでしょ。」
基本的に口うるさくはない風丘だが、
一緒に住まう上である程度、ルールとまでは言わずとも風丘のいう「約束」が存在していた。
その中の2つが、「朝食は少しでも口をつける」、
「起きたとき・出掛けるとき・帰ってきたとき・寝るときは相手に声をかける」というもの。
普段は意識せずとも出来るような内容だから気にしてはいなかったが、
こうして指摘されるとあまりにも子どもっぽい。
それを小さい子にお説教するように指摘され、仁絵は
「チッ…」
思わず舌打ちをしてしまった。
風丘は何も言わないが、その瞬間眉をピクリと動かした。
しかし、仁絵は波立った感情のせいか、その反応を見逃したばかりか、
イライラが収まらず、履いていたスリッパを蹴り飛ばした。
スリッパは、玄関ドアに激突して落ちた。
バンッ
「…っ」
良い生地が使われているなかなかしっかりしたスリッパは、ドアにぶつかった瞬間割と大きな音を立てた。
その音に少しは冷静になったが、まだ心はすっきりしない。
「仁絵君。」
そんな時、ワントーン低くなった風丘の声に呼ばれ、流石に良くない状況に気付いた。
振り返れば、険しい目をして、先ほどから変わらず腰に手を当て仁王立ちしている風丘の姿。
「拾いなさい。」
スリッパを指で指し示される。
しかし、駄々っ子が叱られるようなシチュエーションに、素直に動けない。
動いた方が絶対に良いはずなのはこれまでの経験で文字通り痛いほど分かっているのに、いざこの状況になるとダメだった。
「…あ、そう。分かりました。じゃあ仕方ないね。」
風丘は仁絵の脇をすり抜けざまに、仁絵の手首を掴むと、そのままドアの前に落ちているスリッパを拾った。
そして靴を脱いで上がる場所に敷かれているラグの上にあぐらをかくと、
掴んでいた仁絵の手首を引いて、そこに横たわらせてしまった。
「やっ…おい、こんなとこでっ」
「スリッパ素直に拾ってたらリビングだったのにねー。残念でした。」
そんな後出しずるい。
仁絵は抵抗するも、あっさり押さえ込まれ、ズボンも下着も下ろされてしまった。
「やめろよっ…ここはやだっ…」
「嫌だからお仕置きなんでしょ。
さて、朝ご飯抜こうとしたこと10回、挨拶しなかったこと10回、物に当たったこと30回。
しーっかり反省しようねー」
叱られる内容も叱り方もとことん子ども扱いで、仁絵が羞恥に顔を染めた時だった。
パァァァンッ
「!?!?」
平手の比ではない豪快な音に、仁絵は驚きで絶句した。
振り返ると、風丘の手に握られていたのは先ほど自分が蹴り飛ばしたスリッパだった。
痛みは平手とそう大差ないが、困るのはその音だ。
「な、何だよこの音っ…」
「素材かな。ふふっ、玄関ホールで音響くし、いかにも叩かれてます、って感じでよく反省できるでしょ。」
「やだ、こんなの、聞こえるっ…」
風丘の家は大きいとはいえ、玄関ドアを出たらすぐそこは道だ。
ドア一枚隔ててもこの音の大きさでは通行人に聞こえかねない。
「別にお仕置きされてるとこ見られてるわけじゃないからいいでしょう。
いいから素直に受けて反省する!」
「やだぁっ、ほんと無理っ…」
先ほどの口の悪い仁絵はどこへやら、泣き虫モードが見え隠れしだした仁絵は、
やだやだ、と風丘のあぐらの上から逃げようと、腕を前に伸ばす。
が、そんな抵抗が許されるはずがなかった。
パァァンッ パァァンッ パァァンッ
「あぁっ! いった! ぅぁっ!!」
暴れる仁絵に、風丘が呆れて言った。
「いい加減にしなさい。次膝から逃げようとしたらそこの窓開けるよ?」
「なっ…やだやめてっ…」
風丘が顎をしゃくって指したのは仁絵の視線の先にある窓だった。
開ければお隣の家は見えるし、
窓を開けられてしまえば音どころか打たれた時の悲鳴や泣き声も、風丘の自分を叱る声も筒抜けだ。
家の前の通りを歩く人にも、窓を通ってドアから漏れ聞こえる音なんかよりよっぽど聞こえてしまうだろう。
まだ朝の9時過ぎ。大体の人は家にいる時間だし、
風丘の家に仁絵が居候していることも付き合いのあるご近所さんには大方知られている。
万が一こんなお仕置きをされていることがバレればもう外を歩けない。
仁絵は顔面蒼白になって、振り返って風丘にやめて、お願いと訴える。
「だったらしっかりお仕置き受ける?」
パァァンッ パァァンッ パァァンッ
「あぅっ…いっ…いたぁっ!」
「お返事は?」
パァァァンッ パァァァンッ
「あぁっ…受ける、受けますっ!」
パァァンッ パァァァァンッ
「いたっ…いたぁぁっ」
「はい、じゃあここから50回。」
「なっ…ぅ…うぅ~~~~」
もう朝ご飯の分くらいは叩かれ終わっているのに。
抗議したいが、次反抗すれば本当に窓を開けられるかもしれないと思うと、何も言えない。
仁絵は唇を噛むと、余計なことは言うまいと顔の前に持ってきた腕に口元を埋めた。
…パァァンッ パァァンッ
「んぐっ…うぅっ…」
袖口を口元に押さえつけ、声を押し殺す。
二人きりのお仕置きではすぐにギャンギャン泣きがちな仁絵だが、今はそういうわけにはいかない。
必死で耐える。が、痛みはいくら平手と大差ないとはいえ、平手で50発だって十分痛いのだ。
そこはスリッパだって道具。痛みが蓄積されれば、もう限界は近い。
「あと5回。」
やっと終わる。実際は大した時間ではなかったろうが、仁絵にとって果てしなく長く感じた時間だった。
しかし、最後まで風丘は意地悪だった。
パァァァンッ
「いっ…たぁぁっ!」
しまった。
不意打ちの足の付け根への痛い1発。
あと5発で終わると油断していたこともあって、仁絵は突然の痛みに思わず口元の手を離して叫んでしまった。
そして、再度塞ぐ間もなく連打が降り注ぐ。
パァンッ パァァンッ パァァンッ パァァァンッ
「やぁっ…いっ…いたぁっ…あぁぁぁっ」
「はい、50発。最後に、約束守らなくてごめんなさいは?」
「ぅ…」
最後まで子ども扱い。仁絵がたじろぐと、風丘は容赦なく羞恥を煽ってきた。
「もっとお尻ペンペン欲しいの?」
「だ、誰が! っ…ごめ…ごめんなさい…」
パァァァンッ
「うぁぁっ」
「『約束守らなくて、ごめんなさい』。」
「ぅ~~~~~ 約束守らなくてごめんなさい!!!」
「はい、よくできました。…っうわっ」
風丘に頭を撫でられて、解放されるや否や仁絵は風丘の膝から飛び退き、服をあげた。
一刻も早くこの空間から立ち去りたい。
仁絵がリビングに向かって駆け出すと、風丘は笑いながら後を追った。
「はいはい、じゃあリビングでお尻冷やしますか。」
勢いよく服を直した仁絵に、痛いだろうに…と風丘は苦笑するのだった。
「流石にこれくらいのお仕置きじゃもうあんまり泣き虫甘えん坊にはならないね。」
リビングのソファに横たわってお尻を冷やす仁絵にからかい混じりの口調で風丘が投げかけると、
いや、しっかり痛いし…と、仁絵は恨めしげな視線を投げる。
「そりゃあお仕置きだからねぇ」
「俺もう来月から高校生なんだけど。」
「仁絵君は仁絵君でしょ。」
「…高校生になってもこれは」「もちろん続行」
「学校でも」「わざわざ聞く?」
間髪入れずの即答に、仁絵は肩をすくめる。
「あいつらガッカリするだろうな…。」
「今まで以上にビシバシいくからねー 仁絵君も多少のお仕置きじゃこたえなくなってきてるみたいだし?」
「自分の馬鹿力もうちょい自覚しろよ。」
「はーい、もう一回お膝おいで。」
仁絵が憎まれ口を叩くや否や、
風丘は仁絵の寝転んでいるソファーの斜め前のスツールに座ると、仁絵の腕をグイッと引いて自分の膝の上に移す。
「ほら! 事実じゃん!!」
あまりの華麗な早業に全く抵抗出来なかった仁絵がまた噛みつくが、風丘はどこ吹く風。
「そろそろその口の悪さも直してく? 今『口悪くてごめんなさい』って言えたら許してあげる。」
「誰が!」
バチィィィンッ
「いってぇぇっ」
腕を引かれたはずみでタオルが床に落ち、あらわになったお尻に1発お見舞いされ、仁絵は盛大に悲鳴を上げた。
最後の連打を除き、先ほどまで我慢していた分勢いよく響き渡った悲鳴に、風丘はクスクスと笑う。
「…まぁ、今日のところはこれで勘弁してあげる。」
「はーっ…」
タオルを元に戻され、仁絵は安堵したように息をついた。
ようやく、今日のお仕置きは終わりを告げそうだ。
「さ、仁絵君朝ご飯は?」
「是非食べさせていただきます…」
「よろしい。ちょっと待っててねー」
「風丘。」
スツールから立ち上がり、キッチンに消えようとする風丘の背中に声をかけた。
「んー?」
「…おはよ。」
「フフッ、おはよー。」